宇和島さんさ | 鬼城

宇和島さんさ

2015.08.27.Thu.20:00
宇和島さんさ

今日、天赦園に伊丹から摂津音頭の皆さんが来られると聞いてでかけた。
お迎えは「宇和島さんさ」のみなさん・・・

さんさ1

歓迎の踊り

春雨亭前での踊り
さんさ0

決めのポーズ

さんさ2

黒の着流し、道中差し

さんさ3

お囃子の皆さん


さんさ4
摂津音頭

現在の伊丹・・・ここに伝わる民謡

さんさ5

宇和島さんさの由来

さんさ7

仲良く「宇和島さんさ」

さんさ6
コメント
No title
 宇和島さんさの由来は、やはり、伊達のお殿様経由なのでしょうか?さんさの衣装は、間違いなく武士のいでたちですよね。摂津音頭との関わりは?何も分からない私です。
No title
色々な交流が行われているのですね。踊りのセンスを全く持ち合わせていない私は、リズムに乗ってのガイヤ踊りももちろんダメですが、静かで動きのおとなしいこのさんさこそ踊りの能力を問われそうな気がします。
保存会の方々頑張っておられますね。
宇和島さんさの歌われた時代
 民謡『宇和島さんさ』の歌われた時代

 宇和島伊達四代藩主村年は三代宗贇(むねよし)の三男で、宝永二年(一七〇五)、江戸で生まれた。幼名伊勢松、元服して村昭と名乗り、のち村年と改める。長男宗相(むねすけ)と次男岩次郎が早世したため、宝永七年(一七一〇)世子となり、正徳元年(一七一一)襲封する。まだ七歳であった。宇和島にはじめて入国したのは享保六年(一七二一)。享保九年(一七二四)、仙台五代藩主吉村の娘、富子を娶った。
 村年は、享保二十年(一七三五)、参勤交代の帰途に発病、播磨国加古川で客死した。享年三十一。
 五代藩主村候(むらとき)は、村年の長男、母は正室富子、享保十年(一七二五)、江戸で生まれた。この藩主ほど沢山の諱を使った人はめずらしい。はじめ村房(むらふさ)、村(むら)隆(たか)、村候(むらとき)、政(まさ)徳(のり)、政教(まさのり)、また村候に復し、伊織ともいった。字は時郷、号は天台、楽山、南強。
 父の急死により、享保二十年(一七三五)、襲封。まだ十一歳であった。村候がはじめて宇和島に入ったのは、寛保三年(一七四三)、襲封九年後、二十歳になっていた。
 秀宗入封以来百年余の歳月が経っており、しかも少壮気鋭の村候には、藩政一新の気概に燃えていた。
 着城すると、ただちに少数の供揃えで領内の役所という役所は、どんな小さなところへも不意に出かけていった。これまでの藩主とは打って変わった唐突な行動に、当該の役人は面食らった。
 また、「久しく治世に馴れて、都も鄙(ひな)も遊興の時勢に移りし故にや、大身小身の分かちなく、それぞれ別荘を営み、遊山所となして、明け暮れ楽しみとしけるよし、かねて知ろしめしける」と『鶴鳴余韻 中巻』にあるほど、家臣の城下を離れた隠れ遊山が流行っていた。家臣の遊興は、宇和島藩だけでもなかったが、小身者までが大身の真似をして、埴生小屋まがいの別荘を造っていたから、若い村候には許されず、ただちに取り壊させたりした。
 鷹狩りも百姓の妨げになるからできるだけ遠慮する。年始の松飾も止める。このための若松の伐採は禁止、などなど矢継ぎ早に事細かな節約条例を打ち出した。
 村候は、幕府の武家諸法度にならった十五條の「定」をしめして、藩主としての施政方針をさだめた。その第一条は「忠孝を専(もっぱら)にし、義理を守り、礼儀を正しくし、学問を励(はげ)み、武芸を嗜(たしな)むべきこと」とした。
 とくに学問は、毎月三と八の日に、城内の書院に家臣を集めて儒臣の講義を聞かせ、自分も率先受講した。つづいて堀端の藩校「内徳館(のちに敷教館と改める。ときに普教館とも)」を創設した。これは、仙台藩が、元文元年(一七三六)に藩校「養賢堂」を設けたのに刺激されたといえよう。
 村候には、藩の規模の大小ではない、宇和島藩十万石は、仙台藩の支藩ではない、という矜持(きょうじ)が強かった。しかも秀宗入封以来百年余も経っているのだから、個人的な続柄と家とは別である、という態度を崩さなかった。
 こんな話がある。「(宝延)二(一七四九)年、(村候)参勤す。此の時仙台侯(六代藩主宗村)との間本末の争い生ず。閣老の間に居りて、これを調停するあり、因って事解(と)く。村候、ときに二十五、時の人、その主張を厳守して敢えて人に降(くだ)らざるの風に驚くという」と『宇和島・吉田両藩誌 村候、略年譜』にある。
 この仲の悪さは『鶴鳴余韻 中巻』でも、宇和島三代宗贇は仙台三代綱宗の子、しかも四代綱村の弟ではないか。五代吉村は、二代忠宗八男宗房の子、六代宗村は吉村の四男であると、仙台藩は、ことごとに宇和島藩を見下し支藩か一門扱いしたとある。しかも、宇和島四代村年の正室は仙台五代吉村の娘富子、その実子が村候であるから、姻戚ではこれほど濃い関係なない。
 村候の心情は、将軍秀忠が、藩祖秀宗が父政宗同席させて「これからは、西国の伊達と東国の伊達とが相並び、世に称(たた)えられれば誉である」と讃えて、慶長十九年(一六一四)、伊予宇和郡十万石に封じられた伝えを決して忘れない。
 仙台は六十二万石の大大名・国主であり、宇和島は十万石・準国主の格式ある外様大名とはいえ、宇和島と仙台両家は対等、相並ぶ格式であることを誇りとしていた。
 村候は、自己主張強く敢えて人に降(くだ)らない性格だから、仙台藩邸を訪ねたりすると、若さのせいもあろう、その態度がもろに出た。なにかの弾みに「宇和島は仙台の支藩」論争となって収集つかなくなったのであろう。
 ついに幕府の扱いを聞こうということになった。ときの老中首座堀田相模守正亮(まさすけ)(一七一二~一七六一、下総佐倉藩主)も、いささか困惑したかもしれないが、「宇和島が末家という筋はない。公儀の取扱もその通りである」という書付を村候は入手した。以来、仙台藩は冗談にも「宇和島は支藩」などといえなくなった。
 そうときまると、これまでのわだかまりをさらりと捨てて、両藩お殿さま同席の藩士たちの酒席で、宇和島藩のお庭番、吉田万助らが、仙台の「さんさ時雨」に対抗して、即興の歌を返した。それがいまも宇和島に歌い継がれている古謡『宇和島さんさ』といわれていて、おそらく村候も満足したにちがいない。

  竹に雀の 仙台様も ションガイナ 今じゃこなたと エエー諸共にヨ
  しかと誓いし 宇和島武士は ションガイナ 死ぬも生きるも エエー諸共にヨ
  君は小鼓 身どもが謡 ションガイナ 締めつ緩めつ エエー諸共にヨ
  笠を忘れた 旅路の時雨 ションガイナ 雨に濡れたは エエー諸共にヨ
  宇和島出るときゃ 一人で出たが ションガイナ 今じゃお前と エエー諸共にヨ
  殿は御屋形 すっぴん様よ ションガイナ 国のためなら エエー諸共にヨ
  差すぞ盃 見込んだ上は ションガイナ 酔うて寝るなら エエー諸共にヨ
  花が咲いたと しきりの便り ションガイナ こちら咲いたと エエー諸共にヨ

 家臣までが仙台と仲悪では困るので、兄弟藩ではないかと戒めた青年藩主村候の気持ちを端的に詠っている。
『宇和島さんさ』は詞曲ともにすばらしいが、元歌『さんさ時雨』も、婚礼など祝宴に必ず唄われる格調高い民謡で、政宗の出陣唄とも、祝勝歌ともいわれている。参考までに紹介する。

  門に門松 祝の小松 かかる白雲 みな黄金 ショウガイナ
  めでたうれしや 思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松 ショウガイナ
  扇めでたや 末広がりで 重ね重ねの およろこび ショウガイナ
  雉のめんどり 小松の下で 夫を呼ぶ聲 千代千代と ショウガイナ

 元歌があってこその替え歌だが、比べながら『宇和島さんさ』を考えてみた。
① 囃子詞は、元歌「ショウガイナ」と少し違い「ションガイナ」となっている。宇和島ことばに訛ったのであろう。「ショウガイナ」は「勝凱」に由来するとか。
② さらに元歌にない繰り返しの歌詞「エエー諸共にヨ」が、おわりに余韻をもって添えられているのは、元歌以上にすばらしい。
③ いずれも祝い歌で、しかも『宇和島さんさ』は、さりげない日々の暮らしのなかの藩主と家臣、しかも本家仙台藩を視野にして団結を誓う歌である。
④ 冒頭に家紋の「竹に雀」で、仙台藩との連携を誓うあたり、優雅といわなければならない。家紋については次項に述べる。
⑤ 「笠を忘れた・・・・」と「宇和島出るときゃ・・・・」の歌詞は、元歌「さんさ時雨か・・・・」「さんさふれふれ・・・・」を意識して作られたのだろうが、もし元歌のように政宗時代の出陣歌であるとすれば、宇和島さんさは、戦意高揚には程遠い。敵も味方も仲良く「エエー諸共にヨ」といいたくなる、平和を祈る歌といいたい。
⑥ 「殿は御屋形 すっぴん様よ・・・・」のすっぴんとは、化粧をしない素顔のまま(『広辞苑』)という意味で、気取らない殿様への信頼と忠誠が窺われる。

 それにしても村候は自負心を失わない。寛延三年(一七五〇)、二十六歳のとき、これまでの仙台藩との姻戚関係をはずすようにして、正室に佐賀五代藩主鍋島宗(むね)茂(しげ)(一六八六~一七五四)の娘、護(もり)姫(ひめ)を娶った。
 後代、佐賀藩との婚姻がつづく最初である。念のために記す。七代藩主宗紀の正室は、佐賀八代藩主鍋島治(はる)茂(しげ)(一七五四~一八〇五)の娘、観(みよ)姫(ひめ)。八代藩主宗城の正室は、佐賀九代藩主鍋島斉(なり)直(なお)(一七八〇~一八三九)の娘、猶姫(なおひめ)。
宇和島さんさと今の踊りの形態
宇和島さんさが「さんさ時雨」から派生したということはわかりますが、なぜ女性の男ぶり踊りにしたのか、宇和島がなんとも鵺のような奇妙な感じの街に思われてなりません。昭和初期までの御茶屋全盛時代、芸者300人、関西の奥座敷とはやされた時代ならばともかく、歌詞から辿ってもあんな年増のなよなよ踊りは似合いません。なんとかなりませんかね。はやしことば「ションガイナ」が「勝凱」から派生しているとすれば、もっと明るい踊りが考えられそうなもの。「鳥追い」姿が女性の門付けのひとつで、門毎に金品を貰った放浪人スタイルだということをご存知ですか?
関わり
tentijin 様
摂津音頭との関係はありません。ただ、民謡つながりだけでしょう。しかし、このように伝承され伝えられると言うことは良いことだと思います。打ち上げ花火では話にもなりませんから・・・
残す物・・・
吉野の食いしんぼう 様
いわれとか、歴史とか別にして何か残すと言うことは大事なことですね。宇和島を内外に発信するのには欠かせないと思います。いろんな批判はあるでしょうが、それも歴史です・・・
ありがとうございます・・・
木下博民 様
世に言う「本末論争」。詳しく述べていただきありがとうございます。先生の文章でも分かるとおり。村候という殿様は、宇和島藩の改革を行い、新しい藩としての出発点にしたと言うことに他なりません。やはり中興の祖と言っても過言では無いと思います。
いつの頃か?
木下博民 様
「宇和島さんさ」の歌詞および歌謡は江戸末期にはあったようです。小笠原新田の地震による修復工事の折、謡われたとあります。宇和島の自然と文化に掲載されている昭和の時代に作られた物というのは間違いだと思われます。振り付けは昭和29年頃、北陽の芸者さんたちが振り付けた物だと聞いています。衣装などに関しては、そのときに考え出された物で発祥などは不明です。これからも踊りは続くでしょう。全国の民謡の会などと交流も出来てきています。富山に遠征とか聞いています。
芸者踊りを良家のおかみさんが踊るのが可笑しいというのです。
それをなんとも思わないとしたら、とっと寂しいな。
もとはと考えるか?
木下博民 様
芸者踊りであるけれど昭和50年頃、お城祭りなどで踊っていました。現在はその踊りの継承だと思っておられます。宇和島さんさの民謡は1982年に民謡コンクールで歌われ、その方が日本一になりました。そこからのスタートです。また、その民謡も一昨年でしたか、歌舞伎の杵屋さんの協力を仰ぎ演奏されています。完全なご厚意です。仕掛けは誰がやったか?現在の宇和島の方々は昔、芸者さんが踊っていた踊りだからと思っている方は居ないと思います。
宇和島さんさ
確か?民謡大会で宇和島さんさが日本一になったのでさんさ踊りが出来て、数年商店街でイベントがあったようですが、その後は鬼城さんのブログで見るくらいで、あまり出てきませんね。ガイヤより城下町に相応しいと思うのですがね。
城下町には・・・
うわつ 様
歌の発祥、踊りの発祥、いろいろとあります。しかし、私は父が昭和50年頃、踊っていましたので違和感はありません。ちなみに父は藤間流の名取りでした。お城祭りなど先頭を切って踊っていました。最初の宇和島音頭なども踊っていましたね。映画、南海の狼煙にも太鼓をたたく場面ででています。
私が言っているのは踊りのことです。
歌は昔、民謡日本一になったこともよく知っています。歌詞や曲は大変にいいのですが、あのなよなよした踊りや踊り衣装がこの歌にマッチしていないというのです。わたしは何度この踊りをDVDで繰返しみたことか、どうしても馴染めないのです。
うわつさんのいわれるようにガイヤよりもましかも分かりませんが、ガイヤには郷土色など皆無の無国籍な狂気踊りでしょうから、問題にしません。あの歌詞、聞いただけで寒気がしますが、さすがに歌詞を歌う人はみかけませんね。騒々しいのが受けたバブル崩壊前後の残滓にすぎません。そう思ってみている人も居なくはないと思って、すばらしい宇和島の伝統を探ってください。
踊りは好きずき
樹下博民 様
いやし博の時に出来た団体で高校生から高齢者まで・・・振り付けは以前あったもの・・・これはだめだと言うことも出来ないし、推奨も出来ない。市民は無関心・・・強いて言えば、「いいんじゃないの」という感覚です。しかし、踊っている方々は今から各方面へと交流を深めていくそうです。何もしていない市として口出しは出来ませんし、個人的なものを押しつける訳にはいきません。良い踊りだという方もいますから・・・私としては写真撮影をしアップするのみ・・・今からもイベント参加すればアップします。
だから宇和島人は可笑しいというのです。
宇和島の代表踊りにしようというのならば、誰でも踊れる踊りにしたいですね。
高校生が集団の一糸乱れぬ演技をしてわたしはすごいと思いました。宇和島さんさには宇和島武士の団結心が潜んでいるのです。ああ夕踊りにしてほしいですね。
男女の、しかも顔を隠した門付け(物乞い)スタイルで、ひそひそと手振り脚踏みするのはお座敷で旦那に見出る芸者ならともかく、これが宇和島の代表踊りとはとても、とてもいただけませんね。
いい歌なので、踊りだけはいつも寂しく感じています。
変化
樹下博民 様
藤間流、若柳流、和扇流、そして楽しむ会、それぞれ振り付けは違います。お金がいるかどうかです。各流派は授業料がいります。どれが良いかは人それぞれでどうしようもありません。

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