寺町通り北4 | 鬼城

寺町通り北4

2015.01.10.Sat.09:00
真教寺 真宗大谷派

西江寺と川を挟んで前にあるお寺である。
塀の白い線は真宗の象徴とか。

真教寺1

真教寺本堂

山門をくぐると正面が本堂である。

真教寺2

浄満寺 真宗大谷派

この寺も辰野川を挟んで市部にある。
現在は中央町なる名前だが、昔は裏町・・・

浄満寺1

浄満寺本堂

こじんまりとした立派な本堂である。

浄満寺2

竜光院 高野山真言宗

臨海山 福寿密寺 龍光院と号する。
本尊は十一面観世音菩薩。
四国八十八箇所霊場第四十番札所(観自在寺)奥の院

龍光院1

竜光院

ちょうど宇和島城の鬼門に当たるところから伊達家の祈祷所でもある。
元々は西江寺が鬼門とされていたが、この地に移された。

龍光院2

竜光院本堂

数年前、お砂踏みの祭礼の火が飛び火し本堂が焼けた。
現在は修復され、参拝者たちも多い。

龍光院3

竜光院より鬼ヶ城を望む

宇和島の東は山の峰峰・・・
ここから見ると一目瞭然!

龍光院より鬼ヶ城を望む

寺町通り最終回

南と北の分かれている照れ町通りを紹介してきたが、地図上で見ると・・・
高虎の時代、伊達家の時代、城の南北が寺で囲まれていることがよく分かる。
全国的にもこのような配置は珍しいと思うのだが・・・

寺町通り地図
コメント
No title
 龍光院のミニ四国八十八ヶ所は、よく回りました。しかし、うわつさんに教えてもらうまで河津桜が、あの位置にあったことは知りませんでした。
 私も宇和島に来始めた頃、お寺の配置に特徴があるなと思っていましたが、このブログを読んで高虎時代・伊達家時代の配置が、そうなっていたんだなと納得しました。
この配置
笑隆で~す。 様
海が昔はあったので浄念寺までつなげると寺で囲われています。それと外堀の代わりの神田川、辰野川、畑枝川、須賀川・・・見事な自然利用の要害、宇和島ですね。これを売り出す工夫はないものか?
今朝の愛媛新聞、知ってはいましたが、鬼北町の鬼、すごいですね。特色ある街作り、周りの市町はやっていますが。宇和島の特色はと聞かれると「・・・・?」
戦前と戦後の相違
龍光院のミニお四国は、戦後に作られたのですね。戦前、宇和島の老若男女には槙の山のお四国に人気がありました。大体、一日コースで楽しみました。いまもあるでしょうね。龍光院といえばよく火事のあるところで、昭和の始には昭和9年だったか、私が商業1年の夏、運輸会社へ給仕のバイトにいっていころ夜中に放火魔によって龍光院は焼かれ、宇和島中大騒ぎしました。私はバイトで疲れていたせいかまったく知らず、翌朝会社で皆さんが騒いでいるのに驚いた記憶があります。あの石段の左に砲弾型の日露戦争忠魂碑がありましたが、戦時中に金属回収で撤去され、しばらく台石だけが残っていましたっけ。つい数年前にも龍光院は火事を出しましたね。
この地、寛永のはじめ、禅寺西江寺(いま大浦にある西光寺のこと)であったが、改めて龍光院としたという。
ところで、この地図を見ながら、宇和島はもっと広いのに、いつも宇和島といえば旧城下だけに限られているようです(これはこれで結構ですが)が、できれば津島も三間も吉田も入れて宇和島を意識させていただけませんか? もちろん海は宇和海を包括する日振島も宇和島なのですから。 
どこかにあるかも・・・
木下博民 様
この地図は宇和島市のHPからです。幕末の宇和島ですからこのような範囲になったんでしょう。しかし、言われるとおり、現宇和島の地図はあまり見ませんね。
今朝の愛媛新聞に鬼北町の話題が出ていました。鬼を前面に打ちだすとか。特色のある街作りが近隣の市町はさかんです。さて宇和島の特色は???
No title
竜光院からの鬼ヶ城の眺め素晴らしいですね。下を通ってもお参りしたことがありません。一度あがって山並みを見なくては?。
 浄満寺、今日もこの川向こうの道を通って野川の友人宅に行きました。初釜に行くため、着物を着せて貰いました。
その後、西江寺の駐車場まで、足下はウォーキングシューズだったので、知り人に会いたくないな~と思っていましたがセーフでした。浄満寺の境内の様子が解りました~。
No title
 私の知人に真教寺が実家という方がいます。真教寺については、笑い話のように祖母が言っていた「たいぎやたいぎや泰平寺、しんきやしんきや真教寺。」という戯れ言を母が受け継ぎ、私に語ったことがありました。あまりにも語呂が良いので、一発で記憶していた私は、その知人にその戯れ言の紹介をしてしまい、大変恥ずかしかった記憶があります。根拠のない戯れ言で実家が揶揄されて気分の良い人間はどこにもいないと思います。その本質は、フランスでのテロ事件にも通ずるものだと思います。イスラム教を信奉する方々が、例え言論の自由があるとはいえ、十把一絡げにイスラム教やマホメットをないがしろにするような風刺画を見て心穏やかならざる方はいないと思うのです。だから、たくさんの人の命を奪って良いことにはどう転んでもならないのは当然ではあるのですが、風刺に該当しないたくさんの方々が心を痛めていることも思うデリカシーも、自由同様大切にすべきなのだろうと思います。
お寺
野川に廃寺になって現在はありませんが、寺が2ヶ寺あったと聞きます。素人考えですが人家は町側に、お寺は山側に多いのは埋め立てられる前からあったということではありませんか?真教寺のお墓も西江寺の裏山にありますから、どこもお墓は山すそにありますからそのように思います。
廃寺
うわつ 様
野川の廃寺は、県職員の住宅前あたりにあったようです。大超寺と一宮様の間にもありました。亡くなった牧野くんの家があったあたりです。川の外(山裾)に在ったのが正解でしょう。線で結ぶと城を囲んで洋裁の感じがします。戦いを意識していたのでしょうね。
人口減になるとお寺はどうなるか?
鬼北の鬼は愉快
鬼とは霊魂のこと、『魂』という文字は運気(云)偏に鬼、死んだ人は霊魂(鬼)になる。
宇和島の鬼門に鬼北町のあることはありがたい。
鬼神とは霊魂のこと。「きじん」ともよむが奇人のことではない。鬼ヶ城は鬼神(霊魂)の宿る場所、そう思ってあの山をご覧になってください。
鬼北にはおそらく鬼才満々でしょう。
雉も・・・
木下博民 様
鬼の彫塑の肩には雉が止まっているようです。雉の飼育は鬼北町の特産です。昔、政宗が三条流の料理で使ったことが無いかどうか、伊達家に文書が残っていないか聞きに来られたことがありました。残念ながら在りませんでした。何かをメインに宣伝する・・・成功すると良いですね。
鬼ヶ城という名前は岡山、いわき市にも在るようです。
サトウを招いたときの盛鉢料理に雉がでていました。
たしか、アーネスト・サトウを招いたときの料理に雉の活け作りがでていたとおもいます。サトウの「一外交官の見た明治維新」、ここまで書いて念のために本を開いたら雉ではなく野鴨の生造りでした。もっとも、宗城公はこのような鉢盛料理がお好きだったのでしょうね。
料理
木下博民 様
宇和島の料理は土佐に影響を受けているような気がします。以前、博物館に漁師の研究をされている方が来られていました。皿鉢料理などの影響を受けているのではないでしょうか?料理は生活に密着して発展していますので、さつま、ひゅがめし(鯛飯)などもその良い例でしょう。
宗城公は旬のものがお好きだったみたいですね・・・鬼北町、天狗の子育て祈願のイベントがあったみたいです。これは新しい行事なんですが35年続いています。宇和島も打ち上げ花火ばっかりではいけません。見習わないと・・・
鉢盛料理の起源
土佐の皿鉢(さわち)料理とはちょっと違うようですね。起源が土佐にあるとは考えられません。南豫の鉢盛には、「客が増えても減っても間に合うという便利性」が第一。次は、接待者が主人(男)中心であり、単に料理を運ぶだけではなく、対話が必要だということ。そして、鉢盛の料理が綺麗、客人は小さな皿に取り分けられたものを食べるという平等性がある。
鉢盛料理は南豫の風土人情が醸し出した宴席スタイルのように思われます。もちろん土佐にも似た風習がありますが、それは隣同志だから当然のこと。土佐といえば奈良時代は地の果てで、流刑地だったのですね。宇和は八幡神が人間界の悪習に嫌気がさして、逃げ(?)てこられた桃源郷だった。こんな愉快なこと、ご存知ですか?
南予史
木下博民 様
江戸以前のことはほとんど知られていないようですね。皿鉢料理の起源も始めて知りました。お客というのは、どこの場所でもあるんですね。

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