過去の宇和島 | 鬼城

過去の宇和島

2014.12.06.Sat.14:00
面白い地図

講義を10回シリーズで頼まれ、資料を探している。
第2回目だったか、古い宇和島の地図の資料があった。
昨年、亡くなられた高校の恩師、三好昌文先生の「宇和島城下町の形成について」の論文の中にあった。

1570年代

藤堂高虎の頃

掘り割りの完成・・・

1590年代

町の形成と同時に寺社の造営がある。
城下町には寺社が多い。

1700年代

埋め立て

新田開発のため、宇和島湾に向かって埋め立てられた。
それが、100年後の今でも続いている。

1850年代

現在の地図と幕末の宇和島

これを見るとよく分かる。
堀は現在の56号線の外側に位置する。

宇和島市ホームページより

宇和島城の堀と現在の町並み

コメント
No title
 貴重な地図ですね。元になる地図がどこかの文献の中にあるのでしょうね。今の宇和島の街のできていった様子が分かり、地名の由来なども分かって、なかなかおもしろいなと思い見させていただきました。
狭い土地
tentijin 様
狭い土地をどのようにして拡張したのか、先人たちの努力は大変だったと思います。この歴史が、過去のものを埋没させる原因となったのも事実・・・ある人は、10万石の格式を保つために無理をしたのだろうと・・・1500年半ばの地図から見ると倍近く面積は増えていますね。
この地図原本が何処にあるか知りたいですね。
2枚目と3枚目は順番が逆ではありませんか?
4枚目は1850年代と表示が出ますが、山下新田はもっとあとではないでしょうか?
こういう古地図こそ教育委員会で公式なものを遺して伝えてほしいですね。
No title
木下 博民 様
 文禄4年(1595)と記載されています。寺社の地図に関しては、街割りの中で特別なようです。三好先生がどのようなお考えで地図を掲載されたか、今では分かりません。寺社の地図には、和霊神社がありますから1650年頃・・・和霊神社は付け足されたのかもしれません。
面白いのは1枚目・・・まさに串(半島)ですね。
歴史遺産も埋めた
堀のある状態で残っていたら世界遺産になっていたかも(笑)それはなくても観光客が押し寄せていたかもしれません。それには旧町名も残っていて天主閣横に便所のないのが望ましいのですがね。無策で進めている埋め立て行政で歴史遺産までも埋めてしまったのではないかと思います。
残すべきもの
うわつ 様
新しいことに目を向け、古きよきことは忘れていく。こんな街作りではいけませんね。だんだん寂れていくスピードが上がっているような気がします。それにしても土地はなかったんですね。
No title
 10回シリーズの講義は何処でされるのですか?宇和島の寺社、本当に多くあるのですね。文禄・慶長時代とはどんな時代だったのかさっぱり解らない私めです。
独りよがり
吉野の食いしんぼう 様
 文禄・慶長などといってもほとんどの人が?昨晩あった「軍資官兵衛」の大友攻めなどという話は知りませんでした。地元では石碑が建ち、亡くなった武将を神社に祀り、慰霊もしているようです。宇和島の偉人にしてもしかり・・・地元では有名でも、ほかの場所では知られていない。
 文禄・慶長は秀吉の朝鮮出兵の頃です。寺社は城下町には数多くあるようです。

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