等妙寺ウォーク | 鬼城

等妙寺ウォーク

2014.11.30.Sun.12:00
奈良山等妙寺遺跡

11月29日、輝北町でのイベント参加・・・
今回のテーマは「中世等妙寺の石積み技術にせまる」

等妙寺1

等妙寺遺跡

鬼北町教育委員会パンフレットより
山岳仏教がこの鬼北に広がっていたとは信じられない。
すごい遺跡だ!

等妙寺遺跡

市越の池

集合場所から、現灯明寺に行く途中の池・・・
まだ紅葉が残っている。
モデルは無断で、M氏を入れた。<(_ _)>

等妙寺2

吊り橋

小さいけれど、良い雰囲気である。

等妙寺3

等妙寺

昔は門前町まであったという。
等妙寺4

等妙寺観音堂

山上にあった観音堂を下ろしてきた。
今日は参加者のため、ご住職の計らいで、ご開帳されていた。
優しいお顔の「如意輪観音像」
等妙寺5

観音堂

3間のお堂は珍しいとか。
それによって年代が分かるとも・・・

等妙寺6

鐘撞き堂

鐘撞き堂の紅葉がまだ残っていた。
昨年は真っ盛りだったなあ・・・
除夜の鐘は希望者が多く、くじ引きとか。
等妙寺7

等妙寺遺跡

このあたりから上部が中世、等妙寺遺跡・・・
昨年より、発掘調査が進んでいる。
謎なぞ謎がおもしろいとか。

等妙寺8

等妙寺遺跡より鬼北町遠望

中腹にある展望出来る場所・・・
近永の町並みが一望できる。

等妙寺9

石積み

普通は2,3mのものがこれだけ積まれているのは珍しいとのこと。
日本でここだけだろうとも・・・
つづら折れの階段状の石組みもあり、上の段に上がり下りしたことが分かるとのこと。
等妙寺10

石積み

平石を津にあげている珍しい石組み
等妙寺11

本坊跡

進級の本殿、本坊跡・・・
庭、築山跡も見られる・・・謎に迫るたたずまい、これも良い!

等妙寺12
コメント
No title
 ご一緒させていただきありがとうございました。私は遠足気分で参加しましたが、中世にこんな山奥(失礼)に立派な御寺が建てられていたとは驚きです。植林後50~60年を経た杉林と長年の荒廃で跡形も無かった場所の発掘調査も容易ではなかったと思いますが、鬼北町の誇りといえる史跡です。その全容が姿を現す時が楽しみです。歩き慣れていないのでさすがに疲れました。
疲れ
Kacchan 様
 こちらこそ<(_ _)> 久しぶりに話が出来、楽しい一日と成りました。しかし、昨年に比べ疲れた様な気がします。年々、足腰が弱ってきているのでしょうね。急坂では息が上がりますした。
 鬼北は集散地だったのでしょうね。むかし、広中の頃、ここは松野から土佐、宇和島、日吉越えで大洲、そして三間から吉田・・・交通の要所だったと聞きました。山の中の寺にも意味があるんでしょうね。しかし、これだけの史跡、国指定にすればもっと人は集まると思うんですが・・・まっ、静かな方が行きやすいともいえます。
No title
 お疲れ様でした。楽しい一日を過ごすことができました。しかし、私もかなり腰に来ていました。今日一日、ゴロゴロして過ごしました。
 それにしても、鬼北町の取り組みには敬意を表したいと思います。学芸員の熱意と町当局の理解があるからこそ、毎年毎年前進していっているのですね。羨ましい限りです。宇和島市には、鬼北町に負けない文化財がたくさんあるのに人目にも触れることなく忘れられているのが現状ではないでしょうか。400祭も上滑りしているように感じます。
 写真の構図が、かなり変化してきているのではないでしょうか。「上手い!」と思う写真がたくさんあり、参考になります。
No title
 例の会と重なり、やはり、行くことができませんでした。11月は何もないようで、結構予定が入る月だなと思います。私の場合、たまたまですが、来年まで予定が入ってしまいました。かなり立派な石組みですね。しかし、平石の石組み、雨などで崩壊しそうな気もします。山岳仏教というのは、殊更お寺は修行の場という考えなのでしょうね。
旧等妙寺跡の怪
私もこの寺の山奥の寺跡(いまはそうとう里にありますが)を見に行ったことがあります。なぜこんな山奥に巨大寺があったのか? 不思議におもったからです。ただ、歴史を考えるとき、現在の交通網で便不便を云々すれば大きく間違うという感じがしました。南北朝のころ、南朝の四国の拠点となっていた南郡(津島郷あたりには南朝の年号を使った墓碑をまま見かけるほど)と拠点寺であり、後醍醐天皇勅許の遠国四戒壇(鎌倉宝戒寺、加賀薬師寺、肥後鎮興寺、伊予等妙寺)の一つとなっています。幕府打倒の重要な布石寺だったのかもしれません。ただこの時代の今城氏は南北双方に気を配っていたのでしょう、この寺の庇護もわすれていません。なかなかの古刹ですね。
まったく
笑隆で~す。様
 近隣の市町に行くと活気がありますね。それと親切な行政と言うことがよく分かります。町や市が住民を巻き込んでいる。ボランティアの活動を推進しやすくしている様に思います。何事もボランティアだからと無償の協力を求めているのみでは協力のしようもありませんね。歴博や鬼北町みたいに一度参加したら案内状が来るのもいいですね。住民、参加者に周知徹底させることから活気づきますね。
 我が町の行事は種々様々、場所も散っている。どこで、何時、何をやっているのか分からない。一度、聞いたことがありますが、答えは自分で調べてください。(>_<)(>_<)
石積み
tentijin 様
 石積みだけを研究されている方たちも居るんですね。今回(前回も)の講師の高瀬先生もそんな方でした。崩れそうで崩れないとか・・・それが、石積みの技術なんだそうです。これだけの史跡、石積みでは日本で一番だろうと・・・発掘が進めば、分かることがたくさんあるとのことでした。鬼北町の財産ですね。
 時代とともに建築様式も変わる。理解できました。
 京都、紅葉がきれいで一番良い季節に行かれましたね。またご友人たちとのタイムスリップした会話、よかったですね。機会があれば、来年ご一緒しましょう。
古刹
木下博民 様
 広見中勤務の頃、たびたびこの寺に行きました。全国でも格式の高い寺とは聞いていましたが、歴史ある寺というのは最近知りました。南北朝時代からのいわれがあるんですね。ご住職が、教え子になりますから掛け軸など機会があれば見せてもらおうと思っています。伊達家が入部した後は秀宗、宗利もこの寺を大事にしたと聞いています。先生の 「青年・松浦武四郎の四国遍路 宇和島伊達藩領内の見聞」にも出てきますね。
 とにかく、この広大な史跡、まだまだ発掘が続くと言いますから、楽しみです。このように行政がきちんと予算化することが大事ですね。国の補助金頼みのみでは、百年単位でしか出来ません。
No title
こんな歴史のあるお寺の当時の姿が今後解明されるのがとても楽しみです。以前このお寺の記念行事に提茶でお手伝いに行きました。高僧が大勢、来られていて緊張しました。松野の河後森城の研究も熱心ですが、広見のこれからの研究も応援したいです。
中世の城跡
吉野の食いしんぼう 様
 中世頃の松野の研究はY先生が有名です。特に執筆された「河後森城」の研究はすばらしいものです。発掘も楽しみですが、ロマンがありますね。中世の城には天守がありません。そのぶん屋敷跡など設計にも興味がわくところです。
ちょうど各地、イベントが重なって残念がっている方が多く居ました。是非来年は・・・
攻められたのでは?
いつだったか行ったこととがあります。何かの事情で存続出来なくなったのでしょう。日本で中世とはいつ頃なのかしらべたらおよそ1100年代~1500年代くらいだそうですね。長宗我部が攻めてきたのはその頃だとすれば合点がゆきます。
名刹
うわつ 様
山の上のお寺は、大きなものだったんでしょうね。それも1000年も前の話ですから・・・それだけ山に対する畏怖心があったと思います。里の降りてきても仏教の力は強大ですね。いまでも寺の前では、頭が下がります。奈良京都方面は、この時代より、まだ500年も前・・・「うわつ」さんの写真も力が入るはずです。
南予の史跡
南予の歴史といえば、なぜか秀宗以降明治維新辺りで、その前や後にあまり興味を抱かれないのかみなさん関心がなさそうですが、戦国時代やそれ以前の南予は波乱万丈、ぜひ系統立ててお調べになると、人間の生きざまにいい学習資料になります。鬼北にあるたくさんの山城などほとんど調査手付かずといっても過言ではありません。当時の寺や城や館跡どれも戦に関係しないものはなさそうです。第一、戦争の調停役には必ずといってよいほど和尚が登場するのですから面白いですね。
南予史
木下博民 様
 講義が10回あるので、秀宗入部までの近辺の歴史について調べましたが、まとまった資料がありません。時間的なものがあるので、松野町在住の矢野和泉先生の「河後森城史考ー南予中世史断章ー」を参考にさせてもらいました。しかしながら、中世以前、縄文時代には宇和島あたりには何も無い。歴博の資料にも空白です。御荘、宇和、広見あたりには遺跡があるのに・・・
 日本の歴史と仏教、神道とは切っても切れない関係にありますね。とにかく、広く浅くでやらねば、講義は進みませんから・・・
郷土史は調べただけでは駄目
みなさん、郷土史をやっておられる方が多いので申し上げますが、必ず機会をつかんでさまざまな形で発表することです。初めは研究会、講演会大いに結構。さらに文章にして発表することです。それも、一度二度では駄目、繰り返し繰り返し、気力、体力を充実させて行動し、他人の意見、批判を浴びることです。そして、研究結果はいつでも他人(次代の人々)が容易にみられる場所に備えておくことです。それには郷土資料館的なものをつくるのです。今、宇和島にはそれのできる場所はありますが、「衆知」の結束者不在です。もちろん無償で手金を切ってやることです。
宇和島には歴史研究者は多くても、「よし、これを結束させよう」という人は見かけませんね。すぐにそれは役所の仕事だとお逃げになる。役所は、日常以外のことはまったく消極的・・・。僻地、自滅の街だと諦めるならば、いうことありませんが。
残念ながら・・・
木下博民 様
 郷土史をやっている人はいないのです。ただ好きなだけ・・・私を含め資料を見て勉強するくらいでしょう。そのため、歴博友の会や等妙寺ウォークなどへ参加しています。組織だって研究を進めるのは大変な努力がいります。現在、宇和島歴史文化研究会、西南四国研究会くらいなものでしょう。
 行政の不備は他市町と比較してのことです。あまりにも西予市や松野町、鬼北町の前向きな姿勢と違っていますから・・・改革するには上に立つ人を変えなければという願いなのです。
郷土史をやっている人はいない?
鬼城さん。
あなたの言われる郷土史をやっている人とは、郷土史を生活の糧にしている人のことでしょう、もちろん郷土史で飯を食うなどということは無理でしょう。ただ、郷土に生れた人として先祖がどういう生きざまをしてきたか、この郷土の大地から何を得、何を育て、何を次代に伝えたらいいのか、「郷土史という切り口からそれを無償で発展させる人」がいてもいいのではないでしょうか? 市長が無能だから、議員が無関心だから、教育長が形だけだから、文化課長が何もやらないから、といったところで、それらはすべて市民が選ぶ組織なのですから、市民一人ひとりの気構え、気力の集結なのです。いや、現状でいいのだ、とおっしゃるのならば、それはそれで結構、水の流れるように時間だけは正確に動いてゆく、それだけです。
もともとの仕事
 友人たちは、歴史が好きだということ・・・これは間違いありません。しかし、普段は自分の趣味に生きています。農作業や山歩きや写真、友人たちとの会合などなどです。周りにはボランティアに参加している方々もいますが、このブログのコメントの書き込みの方たちは時間の使い方をうまくやっています。歴史に関しては、イベントへの参加したときの感想なのです。周りに比べということ・・・まっ、評論家であることは間違いありません。
 いずれにせよ、個人の考え方ですから人それぞれ・・・
 自分も教育に関することの仕事、大学時代の山岳会への参加、観光ツアー等々、舞い込んできています。仕事で歴史にも少し入り込んでいますが、ここまでくらいですね。だから秀宗入部400年なども何をするのか、全然知りません。話はここまでにしましょう。

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