寺町通り北 その1 | 鬼城

寺町通り北 その1

2014.10.05.Sun.14:00
今回は上手の二ヶ寺

霊亀山大超寺

浄土宗
我が家の菩提寺でもある。
山門は復元している。
本堂は江戸時代のもので文化財として価値がある。

大超寺1

大超寺本堂

写真はお施餓鬼のときのもの。
おそらく宇和島で一番大きな本堂だろう。
末広鉄腸の墓もある。

大超寺2

伊達家二代公ご生母の墓

墓の後ろに大きな楠木が在ったが、切ってしまった。
残念!

大超寺3

寺町通り北の地図

南編で述べたが、城の堀の北側を流れる辰野川周辺に散らばっている。
川は二重堀として、寺は砦として配置されているようだ。

寺町通り北地図

金剛山大隆寺

伊達家の菩提所
臨済宗妙心寺派の寺である。
正眼院と称していたのを五代村候が自分の墓所と定め、金剛山大隆寺とした。
大隆とは村候の戒名である。
恐れ多いと言うことから金剛山と宇和島人は呼ぶ。

金剛山1

本堂

庭園など歴史深い見所が一杯の寺である。
また伊達家墓所に関しては別の機会に取り上げたい。
現ご住職とお話をしたとき、なぜ大名家には禅宗が多いのかと質問した。
ご住職は、しばらく考えられ「自立でしょう」と・・・
これぞ禅問答・・・
ゆっくりと解説していただいた。
今までの宗教は助けてもらいたい、つまり他力本願・・・
禅は自立、つまり頼れるのは自分自身である。
そのための修行をする。
これが武士の生き様にあったのでしょうと・・・

金剛山2
コメント
 どちらのお寺も宇和島市では、有名なお寺ですよね。
 時々、訪れますが気持ちが落ち着く感じがして、とても大好きなお寺でもあります。
 宇和島に転居したての頃は、大超寺が分からなくてウロウロした記憶がありますが、宇和津校に勤務してからは度々訪れました。
お寺も変化
笑隆で~す。様
子どもの頃のお寺からは様変わりしています。本堂は建て替わり、庫裏も現代住宅になり・・・これも一つの流れでしょうか?山門と本堂のみ・・・写真というにはほど遠いですが、記録として残すという意味では欠かせない場所ですね。
大超寺の下あたりにお寺があったんですよ。いまS先生が住んでいるところあたりです。
お寺さん
鬼城さんのブログを黙って(鬼城さんに)拝見しています.
宇和島にはお寺が多いですね!改めて感じました.
それぞれに、歴史や謂われががあるのですから、もっと上手く使えないモノでしょうかね?(観光でも法話でも、お祭り?でも)
ご住職さんの法話やなんかを定期的におこなってみるとかして、お寺さんも私達の処にはいってきて欲しいと思いますが、、、、.
(昔は、感じなかった、思わなかったことを思うと、一寸近くなってきたのかとも、、、くわばらくわばら!)
お寺参り
ecchan 様
書き込み、ありがとうございます。
 昔、同僚の和尚さんに言われました。故郷になぜ帰るのかと・・・
お墓があるからだそうです。しかし、現代においては、無縁仏が増えているとか。無住、無縁・・・
 お寺参りをしていると、なにか落ち着きます。伊達墓所は指定を受けると聞いています。一昨年か、レーザー測量もしたようです。しかし、いつになるやら分かりませんが・・・
次はどこ?
今はありませんが、野川に2寺あったそうですね。その他にも消えたお寺があったかもしれませんね。さて、お寺巡り次はどこだろう?裏町辺りかな?旧八幡村や来村辺りにもありますからがんばってください^^
浄土宗の寺と禅宗の寺
愛宕山を挟んで浄土宗の寺と禅宗の寺なのですね。宇和島には禅宗の寺が多いようですね。
霊亀山という大超寺の山号は村候が参詣した時に庭に亀が現れて松樹の陰に消えたのでこれぞ霊亀といってお殿様が付けられたとか。昔の為政者は足しげく寺へも顔を出されたのですね。
結構ありますね
うわつ 様
頼まれ仕事があり、遠出がなかなかできません。市内をうろうろとしています。大超寺奥は宇和津彦神社の上あたり・・・同級生の早世したM君の家あたりですね。野川は金剛山から上がって橋を渡りしばらく行った右手あたりでしょう。
寺町ですから周辺は省略です・・・
知らなかった
木下博民 様
霊験ある亀だったのでしょうか?村候は信心深かったんですね。金剛山もさることながら、和霊神社も大きく建立していますし・・・ご先祖を大事にする殿様、まさに歴史ですね。
 お寺は、もう、宇和島の風景には欠かせられないくらい馴染んだ風景の中にあり、訪れても、写真を見ても、穏やかな気持ちになります。しかし、作った方々のことを学ぶと、川も、城を守る堀と同等の備えであったり、寺も、様々な方向から攻めてくる敵を迎え撃つ砦としての位置づけもあったことを教えていただき、感心してしまいます。
瑞巌寺
tentijin 様
瑞巌寺の学芸員さんから教えてもらいました。仙台城がいざというとき、瑞巌寺が城代わりになるよう作っているとか。宇和島の寺々も同じ役目を担っていたんでしょう。何しろ町割は藤堂高虎ですから・・・
しかし、寺は住みやすいように新しくなっています。歴史を残すか、生活を大事にするかですね。
「寺」って何か
昨今は寺といえば「墓の面倒を見てくれるところ」くらいの認識だが、これではいけませんね。元来、「テラ」とはパーリ語の「長老」、または朝鮮語の「礼拝所」からきているそうで、奈良時代は学問府、平安時代の京都の寺は貴族の別荘を兼ねていたようで、江戸時代になるとに役所の一部になってしまう。戸籍などは寺で管理し、とくにキリシタンでない証明は寺がだした。中国でも寺とは役所のことだった。
明治後、寺と言えば死んでから世話になるところ程度になってしまって、とくに「家制度」の崩壊は先祖のことなど無関心、集落の存続など役所まかせですから、寺という共有組織体もここらで活用方法を真剣に考えなおさなければなりませんね。
母の里の菩提寺は住職さんが常駐?でなく宇和島から事が有る度出張されます。
 ここに書いてある禅問答の様子に接するとすごいなって感じます。檀家も減って、田舎のお寺も地域との繋がりを求めても難しいのかもしれません。
寺の存在感
木下博民 様
礼拝所や役所の一部から、寺の生活の場となりつつありますね。最近では墓地なども、風変わりなものが出てきているようです。家制度そのものが崩壊する危機的状況で当然の帰結でしょうかねぇ・・・
昔は・・・
吉野の食いしんぼう 様
横溝正史の獄門島(笑い)を見ると「村長」「和尚」「村医者」が地域の重要な役割を担っていたようです。最近では檀家が少なくなり寺は無住、無医村も多くなりましたね。
無駄なこととは思いつつ。地域活性化事業に淡い期待を・・・v-411

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