寺町通り南 その一 | 鬼城

寺町通り南 その一

2014.09.24.Wed.10:00
二つの寺町通り

宇和島には辰野川の北側と神田川の南側に寺町通りがある。
藤堂高虎が築城した折、川は外堀として、寺は要塞として建てたと言われている。
今回は南側の神田川上流の三ヶ寺を訪ねた。

南寺町通り

佛性山光國寺
 
臨済宗妙心寺派の寺である。
寺町通り、一番上の寺・・・川向こうに神宮寺があるが、廃寺となっている。
この光國寺は「中野逍遙」「油屋熊八」の墓所でもある。

光國寺1

本堂

若かりし頃、ご住職は私の上司だった。
休日にお伺いすると世間話の合間に、お茶を点てていただいてごちそうになった。
このとき、お寺とお茶の関係を知ったような気がする。
今はもう亡くなられている。
退職されたとき、「もう二度と背広を着ることはないだろう。」といわれたのが印象深い。
現在は息子さんが、ご住職となっている。

光國寺2

法寶山 佛海寺

臨済宗妙心寺派の寺である。

鎌倉円覚寺の大用国師修行の寺としても名高い。

修業時代のエピソード
「僧誠拙は延享2年(1745年)に下灘浦之内柿ノ浦(現北宇和郡津島町柿ノ浦)に生まれた。
生母の再婚に伴い3歳から7歳までの5年間家串浦で育った。
ある夏の頃、誠拙が縁側で遊んでいると、六部姿の回国僧がやってきて頭を撫で言った。
この子は名僧になる相が現れているから小僧に出されたらよいと言った。
母はこの言葉を聞いて臨済宗妙心寺派仏海寺(宇和島市妙典寺前)の小僧に出した。
時に7歳、師は霊印和尚であった。
誠拙13歳のとき、藩主伊達村侯が不意に寺を訪れることがあった。
霊印和尚は狼狽して迎え、
あいにく小僧達が不在で十分な応接ができないため気をもんでいた。
そのとき誠拙が遊びから帰ってきたので叱りつけて拳骨をくらわした。
誠拙は殴られたことに不満であったが、和尚に言われる通り殿様の肩を揉んでいた。
殿様が不審に思い、わけを問うと和尚に殴られたことを語った。
殿様がどんなに痛かったかと聞くので、「この位でございます。」と殿様の頬を殴った。
霊印和尚は万死に値するものとお咎めを待っていた。
藩主村侯は霊印和尚を城に招き「昨日の小僧は大器に違いない。鎌倉へ遊学させよ」
と言って旅費まで下賜したという。


佛海寺1

本堂

十数年前、火災で焼失、再建されている。
山門の脇には、宇和島七福神福禄壽が祀ってある。
佛海寺2

弘教山 妙典寺

日蓮宗の寺である。
高台に位置し、宇和島が展望できる。

妙典寺1

本堂

山門から本堂を望む。
左横には稲荷神社があり、三月にはお祭りが執り行われる。
境内に舞台ができ、踊りやくじ引き、餅撒きなど賑やかである。
妙典寺2
コメント
光国寺、仏海寺、懐かしい寺です。
光国寺、何度訪ねたことか。ここには山村豊次郎のはかもあり、芝義太郎の先祖の墓もあり、もちろん逍遥や熊八も書きましたのでその都度たずねましたっけ。いまの住職には世話になりました。
 逍遥の墓の写真も撮し来ぬ伊豫路の秋の旅のかたみに
 秀才の香(にほ)へる骨を憐れみておろがみにけり逍遥の墓
これは吉井勇の逍遥墓七首のなかからはじめの二首をえらびました。
仏海寺の大用(だいゆう)国師碑は私の子供の頃に建ったので、小学校では必ず教わった偉人。この寺には恩師宇和島商業校長丸島清先生の墓もあり、たまこの寺の前の神田川沿いの家に細見行雄という宇商で国語を習った先生の下宿があって、先生はここから第一回目の召集で出征されました。この先生、二度目には沖縄戦に投入され港川付近で戦死されました。いずれにしても、懐かしい場所。                       
 懐かしいお寺ばかりです。宇和津校時代に度々訪れたお寺です。特に佛海寺の娘さんを持っていたので濱木住職さん夫妻にはお世話になりました。
 宇和津校界隈は、戦災に遭っていなかったのか路地も狭く車での通行が不便でしたが、昔からの情緒が残っていた地域でした。4年間の勤務でしたが、とても充実した時間を過ごせました。
変化
木下博民 様
 神田川沿いは古い家並みが残っていてドラマの撮影にも使われていましたが、今はほとんど立て替えられ、雰囲気が変わりました。光國寺から墓の中を通って佛海寺に行く細道は変わりません。神宮寺も再建はおぼつかないようですね。
 先生があげられている方々の名前、知っている人がいるのは私より上の年齢でしょう。
新しい発見
笑隆で~す。様
 ちょうどお彼岸の中日だったので、いろんな人とお会いしました。そして恥ずかしながら、佛海寺が禅宗というのは知っていましたが、臨済宗妙心寺派というのを初めて知りました。つまりここも伊達家の息がかかっているんですね。
 光國寺、佛海寺の本堂は新しくなっています。妙典寺が一番古いかな?宇和島で一番古いと言われているのが大超寺ですね。
歌があった
幼い頃から若かりし頃の思いで深いお寺です。今は廃寺になっているようですが、光国寺の前になんだったか?神宮寺?がありました。妙典寺4区にあ~ぁ~名前が出てこない~保育園をやっている立正寺だったか??そして泰平寺になります。一番町に近いのは浄満寺ですね。
しんきやしんきや真教寺・屁をひって仏海寺・しょんべんじょうじょう浄満寺・なんて幼い頃、ざれ歌を歌ってませんでしたか。
古いことは覚えてる・・・
うわつ 様
(笑い)新しいこと、さっきのことを忘れている。最近の物忘れの特徴ですね。まあ、なんと宇和島には寺が多いことか?しかし、人口減(檀家数減)によってはいてらになるのも出てくるでしょうね。大浦の西光寺は新しい住職が来るそうです。
子ども時代は遊び場で神社や寺は欠かせませんでしたね。
 宇和島は、狭い地域の中に、何とまあお寺の多いことでしょう。いざというときに、砦のように使うことを想定していたという御説明を聞いて納得がいったようにも思います。妙典寺前に住んでいた幼い頃に、お墓参りによく佛海寺を訪ねました。当時の本堂は、まだ火災の起こる前で、達磨大師の肖像画がたくさん壁を飾ってありました。庭には、大変立派な松があったのを覚えていますが、火災のため風情も随分変わったことでしょうね。
達磨大師
tentijin 様
 焼ける前と雰囲気は変わりました。しかし、もう十数年前ですから、現状の様で落ち着いた雰囲気になってきています。
 禅寺には達磨大師の肖像が多く残されていますね。墨絵で筆一本で書くのですからやはり修行のわざとしか思えません。tentijinさん、石だるま(I校長先生)ではなく、軸に挑戦されては・・・
私が所属する山の会では1月2日に宇和島の「七副神」巡りを恒例行事にしています。わたしも3回位参加し宇和島にお寺が多いことを感じました。
 何気なく訪ねていたお寺でしたが鬼城さんのブログや皆さんのコメントでいわれや人との関連を知ることができます。
宇和島七福神
吉野の食いしんぼう 様
訪れてみると、普段は締め切ってお顔を見ることができない。お堂を開放してもらいたい願いがあります。朝開けて夕方閉めたらいいのにといつも思います。いつ開けるんだろう?西江寺はえんま様の3日間に一度開けますね。

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