架橋工事その後 | 鬼城

架橋工事その後

2014.08.16.Sat.15:00
白浦より「

石応周りで帰る途中、ふと眼を右に向けると九島が・・・
来年度末には橋が架かる。
目の前は本九島か?
またもや、寄り道を・・・

戎山0

戎山半島

このような名前があるのかどうか知らないが、九島灘に着き出している岬である。
ここに幕末、高野長英が砲台を築いた。
現在は九島架橋と屎尿処理場建設で工事が進んでいる。
先には両サイドから行くことが出来る。
はじめて石応側から走ってみた。

戎山1

養殖のえさを運ぶ船だろうか?

今はクレーンを積んでいるのが常識のようだ。

戎山2

橋脚台

以前のブログで間違えたが、この上に橋脚が建つ。
現在どこかで作成中とか聞いている。
できあがったら、また台船が・・・

戎山3

養殖のいけす

鯛だろうか?

戎山4

静かに橋が架かるのを待つ

戎山5

一直線

カメラ目線を橋の架かる位置に合わせた。
この上に一直線の橋が架かる。

戎山6
コメント
最近の建設は工場でブロックを造って組み立ててあっという間に出来上がるようですね。この現場のほとんど人影が見えない(もっともお盆のせいかな)ようですね。来年には架橋ですか? くれから九島をどう活用するか、夢が膨らんでほしいですね。
 九島には本九島があるんですね。知りませんでした。九島に橋が架かれば、良きにせよ悪きにせよ、新たな歴史が始まりますね。後は、九島にもう少し広い1周道路ができることを願っています。
お盆休暇中
木下博民 様
個人の住宅にしろ、ビルにしろ、今ではプラモデルと同じ作り方でしょう。接着剤で付ける代わりにボルトナットでしめる。工事そのものは道路が中心でしょう。橋は外部発注ですから・・・それと人が見えないのは「お盆」だからだと思います。
どうするのか?
tentijin 様
本九島、百之浦、蛤の集落と標高320mの鳥屋ヶ森があります。フェリーを使って遠足に行ったことがあります。鳥屋ヶ森までは結構きついですよ。さて橋が架かった後、どうなるのかまったく論議されていません。これが宇和島市なんでしょう。産廃施設を作るとか、道路をと言う意見があるようですが、具体案ではないようです。
 友人のお里であるご縁で年数回は訪れる私の大好きな「九島」、橋が架かってどう変わるかがとても心配です。
 島民の方は橋を望んでおられる方が多いのだと思いますが、生活に利点が増え自然も残って欲しいものです。
 一直線の写真を見ながら、近い将来、ここを通り、JAの船で渡った昔を懐かしむのだろうと思いました。
 鳥屋が森、年々あの直登のしんどさを感じます。
狼煙
吉野の食いしんぼう 様
 博物館勤務の頃、鳥屋が森にある「狼煙台」で狼煙を上げてみたいと思って居ました。今は夢となりました。九島は宇和島の要所でもあったんですね。教え子が心配せずに夜飲めると言っていました。(^。^/)彼はいつも8:20頃に一人お開きでした。
 掛けた値段ほどの経済効果は無いと思います。歴史的な工事ではありますが・・・
 海翔が来て以来、行っていないのでどのようになっているのか分かりませんでしたがよく分かりました。今は、工事が中断しているのですね。
 どのように環境や人が変化していくのか心配です。豊かさや便利さを追求することで、かえって貧しくなったり不便になったりすることって、往々にしてあることですからね。
 「数百人の橋」のために多くの費用を注ぎ込むというのはどうなんでしょうか。先にやることがあるのではないでしょうか。このままだと宇和島は、沈んだままになってしまうのではないでしょうかね~。
さて?
笑隆で~す。様
 軍師が居ない所為ではないでしょうか?見通しが立っていないのが現状のような気がします。九島架橋語のこともそうだし、図書館が・・・城南の体育館が・・・津島中立て替えが・・・駅前再開発も見えない。17年の国体に関しては全然のような気がします。
 空き家対策、空き商店街対策などなど、目を向けるべき所は一杯在るように思います。
戎山の海
戎山の道端に祠があったでしょう。あの辺りは海に入ると砂地でした。海草が生えているところもあって小魚が群れていた透明度のある海でした。
もう、昔の海にはならないでしょう。
寂しいですね・・・
うわつ 様
戎神社ですね。砂浜は知りませんでした・・・遊びに行ったのは坂下津海水浴場と予科練の友人宅でした。山羊を飼っていて、角を持って押し合いをしたことを思い出しました。乳を勧められましたが、飲むことは出来ませんでした。これも懐かしい思いでです。もう自然もあの時代には帰れないでしょう。
九島には明治期の「九島村誌」と戦後1976年に九島公民館で出した「わたしたちの九島」など若干の資料がありますが、いまのうちに真剣に纏めておかないと、これまでの九島はなくなるでしょう。おそらく誰も知らなくなる。
たとえば、なぜ九島というのか? 口伝は幾つかありますが、それもやがてはきえるでしょう。私は宇和島(この呼称はせいぜい400年)より前から九島には人が住んでいた。いろいろな視点で九島を学ぶのも「架橋という歴史のポイントに遭遇した人々の務めだと思うのです」が、どなたか吾こそはと気負う方、グループはおられませんか? 九島の学校にお勤めの先生で団塊の世代の方々、よし俺がと思われませんか? 
ちょうど敗戦69年目ですが、九島では昭和の戦争だけで160人からの戦没者がいるのですよ。
 かえりみて涙出づるまで寂びしきにお伊勢山に残る四五本の松
かつてこの島の学校に勤められた内山直先生の歌です。
懐かしいお名前
木下博民 様
 内山先生は歌人としても有名な方で城南中の頃、上司でした。温厚誠実なかたで自宅へもたびたびお邪魔しました。
 九島も教え子が居ますので、探してみようと思います。中学校は統合したので記録はどうなっているか不明ですが、小学校には永久保存の沿革史があります。学校関係のみのので、九島の歴史がたどれるかどうか?

管理者にだけ表示を許可する