山家清兵衛その後 | 鬼城

山家清兵衛その後

2014.07.19.Sat.21:00
睡蓮

我が家の小さな庭に火鉢を置き、その中に睡蓮を植えていた。
肥料が足りないのか、小さな花を付けた。
メダカも居たのだが、大雨の時に流れていた。

ふっと連想的に山家清兵衛に関して疑問が有り、金剛山を訪れることにした。

睡蓮

新しいご住職が来られ寺が生き返った

昨年の山家忌に撮影した蓮・・・
今年はまだなのか、枯れたのか分からない。

蓮

山門

この山門は江戸時代後期に、付け替えられているとか。
山門をくぐると中門がある。

山門1

中門

写真は山家忌の時のもの
正面が山家清兵衛の位牌堂である。

山門2

天祥院殿心渓常涼大居士

位牌に記されている戒名である。
和尚さんのお話しでは、藩主の寺で正面に家老の位牌堂を据えることはあり得ない。
しかし、歴代の藩主が忠臣と認め、伊達家の守護神として崇めているのだろうと・・・
大隆寺が改築されて頃は、御成門の前が正門だったと記録にあるとのこと。
現在は歴代の御老師達、藩主達よりも上の位置に祭られている。
両脇の石灯籠には、戒名が彫り込んである。

疑問に思っていたこと・・・
山家清兵衛の上意討ちの日は?
和尚さんが言われるには、位牌の裏に6月晦日と書いてあるとのこと。
すなわち元和6年30日、西暦にすると1620年7月29日
法要が29日に開かれる裏付けとなる。

もう一つ、海の方々の信仰が強いのは?
海岸の家々の床の間には山家清兵衛公の肖像画の写しが掛かっていると聞いていた。
当時、山家清兵衛を崇拝している二人の方が居た。
日振島の庄屋、清家久左衛門と裏町の侠商、伊方屋仁兵衛である。
中でも久左衛門は、清兵衛公亡き後、御霊屋を建立してお祀りしている。
海に関係している人だから、他の人も信仰したのではないかと思われる。
これは確かなことではないが、考えられる。

山家清兵衛公は村候(伊達家5代藩主)によって地位を得て、一気に神になっていく。

山家清兵衛位牌堂
コメント
秀宗は父政宗のお目付けのようにことどとさよう、宇和島の内情を政宗に伝える清兵衛が鬱陶しくなってるく、この不満を焚き付ける中級役人が秘かに徒党を組んで上意討ちしてしまう。
上のすることだから下は静観するかと思えば、さにあらず、日本人には「判官贔屓」という情念があって、被害者に同情する、それが「怨念信仰」というもので、様々な風評を生んでゆく、何かの事故もこの怨念信仰によって結びついてしまう。宇和島は四国遍路のコース故、こういう噂はたちまち全国に広がる。
怨念信仰を秀宗最歳晩年(その頃は中風で意志表示困難、実際は宗利)に「和霊明神」と称号を受けて祀り一応庶民の念信仰に応えたが、5代村候の時代になって一挙に宇和島の守護神に祀り上げてしまう。金剛山の御霊廟もその時代ではないですか? 金剛山自体、村候が富田の建てた寺を改修、竜華山に対してもう一つの菩提寺を造ったほどの改革藩主ですから。もっとも、このとき村候を支えた家老が偉い、桜田ではないですか? いま、桜田家は宇和島を離れて居られるようですが、和霊信仰の貢献者は桜田かもしれませんよ。
和霊神社が全国的に有名になるのは村候の代からではないですか? これまでこういう流れの話が伝わらなかったのはもの話を強調すると秀宗評価が下がりかねません。それは思い過ぎかな。
なぜ、「和霊大祭」といわず「牛鬼まつり」などといいかげんな呼称で宣伝するのでしょう?
宇和島の人々は「和霊」の意味を真剣に討論もせず、奇怪な練りもの(派手で脅しの効く単純な練物)牛鬼を前面に出すのでしょう。
この祭りのときくらい、「和霊の意味を徹底的に話し合う集団がいてもいいじゃないか」とおもったりします。いま一番世界が要求するのは『和やかな心(霊)』なのです。これを神社名にしているところが他にありますか? 「ワレイ」と音でいうと堅くなってしまいますが、「ニギタマ」なのですから。
もとも牛鬼も大変いい練りものですが、なぜ「鬼」が「神の僕か」、いや「鬼自体が神になっていったのか」。祭が、そんなことを真剣に話し合う夏の一日であってほしいですね。
和霊信仰
木下博民 様
 和霊信仰、面白い課題です。金剛山の和尚さんと話す中で、歴代続いた和尚さんの口伝では、闇討ち説が根強いとか。しかし、桜田の墓や島内、志賀、松根などの墓があるのだから闇討ちであっても、放しうちや上意討ちでも、不平不満節の一団だろうと・・・
 また秀宗に関する評価は、歴史をたどってみると非常に低いとされています。先日の講演(教育関係者)のとき、私は教員としての立場で話しました。秀宗は、決して通説で思っているような武将ではなく、悲運の武将だったと説明しました。人生の中で3度も人質になり、豊臣に従属、そのため仙台62万石は弟に譲り、辺国の宇和島に追いやられる。しかも、謀反を起こす可能性も考え、井伊家からの亀姫・・・政宗からはお目付役で山家清兵衛・・・現代の子どもでも精神的にゆがむだろうと思われます。宇和島騒動で父との間の修復がなされ、宇和島初代藩主としての責を全うします。今現在、伊達家が続いているのも、宇和島があるのも秀宗が来なければ無いわけです。歴史にタラ話は禁句ですが、このような考えの基で400年祭をやってもらいたいですね。マイナス思考では前に進めませんから・・・
さて?
木下博民 様
 牛鬼祭り、いつからか分かりません。昭和24年より、商工みなとまつりでスタート。商工祭り、宇和島祭を経て、牛鬼祭りになったようです。主体は商工会議所ですね。宇和島市は実行委員会のメンバーです。改革案なども出されるようですが、ありがちな「今まで通り」で過ぎて行っているようです。反対される方もいるようですが、牛鬼まつりでいいという意見の方が多いそうです。ガイヤや宇和島音頭も同じですね。3日間を2日に縮めてはという意見も出たそうですが、これも今まで通り・・・改革は、やる気が無いと前進しません。これが経緯のようです。
和霊大祭
難しいことはわかりませんが、和霊騒動~和霊神社~和霊大祭がこれまで幼い頃から聞いてきた流れだったように思います。和霊騒動は歴史を研究する人達によって確実に証明された。あるいは訂正されたということはなくいつも、だったと思われるで終わっています。
ただ、和霊大祭が牛鬼まつりになった頃から信仰心が無くなって騒ぐだけの祭りになってしまったのは残念です。かって近隣から大漁旗を立てて港が漁船で埋まり、賑わっていた風景は見えなくなりましたね。
つまり、和霊騒動~和霊神社~和霊大祭の言い伝えられなくなって、和霊大祭の意味が無くなったのでしょうか?
方法
うわつ 様
その通りです。木下先生の言われるのも同じだと思います。和霊大祭、山家清兵衛公のお祭りが薄くなり、観光客も激減しているのだと・・・
山家忌にはカーバイトの匂いのする屋台で「芋飴」を買って帰る楽しみがありました。和霊様24日、輪抜け27日、御霊屋様29日と祭が続き、夏休み前半が終わりましたね。懐かしい思い出です。
もし家老を闇討ちしていたとすれば、実際に踏み込んだ人日とはお家断絶打首になったばず、そういう判決は全くありません。巷間のように桜田・山家の対立だったら、のちのち桜田家と伊達家が深い姻戚関係になることは不自然です。桜田本家が宇和島を出られたのは明治以降の話で、しかも伊達家の銀行の破綻の際その犠牲になったといいますから。
実は秀宗入封400年記念というのですから、このイベントには秀宗について何か語らなければならぬでしょうが、もし秀宗を好評価するとすれば、彼は出生時からいささか悲劇の人物、伊達家のために権力者の人質に遣いまわされたことです。だからといって政宗は秀宗を虚仮に扱うことはしませんでした。
政宗の亡くなったとき、秀宗は伊達家総領として葬儀の場に出ていますし、仙台藩とへ秀宗を小藩の藩主などという失礼なことはしていません。もし、山家事件の政宗のすばやい扱いが成されなかったら、それこそお家断絶になりかねない事件のはずですが、それはありませんでした。
また、吉田藩創設事件もいうなれば、その後相当期間宇和島藩は苦労しますし、吉田藩も決してよい藩だったとはいえません。現在は元藩主吉田伊達家と吉田とも繋がりは薄いようですね。
 和霊さんのお祭りに、深い歴史があることがこのブログのコメントで解りました。このお祭りの一番古い思いでは、大浦の伯母の家に行き、花火を観た記憶です。このコメントに影響されてでしょうか、そう言えば船と大漁旗も見たような~。母に聞くと4才前と言うので船と大漁旗は後付かも?
 金剛山一度訪ねて見たいです。
秀宗
木下博民 様
まったく、その通り・・・政宗の父親としての愛情だったと思います。しかし、戦国時代ですから表現など稚拙で誤解を受けたと思います。秀宗の境遇はやはり、むごいことですね。とにかく、伊達家の礎ですから・・・彼が居なかったら中興の祖と言われる村候や宗紀、宗城は居なかったはずなんです。
つまらぬイベントより、親子の愛情を示す何かを残したいですね。
宇和島良いとこおい出なせ~♪♪♪
吉野の食いしんぼう 様
大浦も船で一杯でしたね。祭は盛運社のところで夜8時に海上渡御が・・・これはお勧めです。あまり宇和島市民も知りません。そして異動し、走り込み見物・・・
金剛山大隆寺は是非、一度はお参りしてください。29日18時より法要です。蕨生のお寺には清兵衛公の奥方の調度類が残っているそうです。伝説では無く、吉野生に非難されたんですね。
蕨生の寿福山妙楽寺といいましたかな? 清兵衛の奥さんが一時匿われていたというのは。
私の先祖の檀那寺ですから、寺の下の道はなんどか通ったことがありますが、残念ながら伝承を知る程度でそれ以上は知りません。
山家の知行地は目黒村で、ここだったとも聞いておらず、伝承ではこのあたりから来ていた使用人の手引きだとか聞きました。もっとも事件のあとしばらくして吉野・蕨生・目黒は吉田藩領になりますので、ますます遠い伝承になったのでしょう。
このあたりをさらに詳しく知りたければ「松野町誌」の806~7ページを読んでください。
ただ、清兵衛闇討ちの当夜、奥さんが事前に家を出ていたことはなにを意味するのか、後日、この資料では奥さんは仙台へ戻ってから再び宇和島に来ている。夫の供養のためだとあるが、一家皆殺しにされる大事件で、犯人が誰も挙らず、奥さんも夫供養に再来宇する、奇妙ですね。
この事件から私たちが何を学びとるか、そういうややミステリーっぽい討論ができる時代になっているのですから、真剣に歴史を学び、善悪をしっかり見極めて考えてみるのも、和霊大祭という真夏の夜の学習に、最適ではありませんか?
 コメントを読むと、和霊様の様々な歴史が見えてきて勉強になりました。いつも、職場の行事で行けずに過ごしていましたが、1度だけ群衆をかき分けながら、参加した記憶があります。金剛山の方も1度行ってみたいです。和霊大祭と夏は切り離せない記憶になり、皆さんも、夏の到来を感じるのではないでしょうか。

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