小笠原新田 | 鬼城

小笠原新田

2014.06.01.Sun.12:00
健康管理

一時、中断していた朝のウォーキングを再開した。
昔、夜散歩していたコースを朝に変えた。
すると違った風景が・・・
宇和島水産高校手前の小川に架かる橋。
橋の名は「小笠原橋」
橋名は必ずと言っていいほど「おがさわらはし」と濁らない・
橋には水門が・・・

小笠原新田1

七代宗紀公の施策

鬼ヶ城にへばり付いているような宇和島の地形・・・
産業や農業に適さない。
そこで振興策として新田開発を命じた。
それに答えたのが「小笠原兼助」・・・
幕末の地図では御殿の西側(海側)を埋め立てた。
主に蓮などを栽培していたと思われる。
昔は遠浅の海岸だったとか。

幕末の宇和島地図

埋め立て工事

海を埋める場合、欠かせないのが潮の干満による逆流。
その防止策として水門が儲けられた。
江戸時代と違い、現在では鉄の門の開閉である。
橋のたもとには、閉まっていたが、安全祈願の祭ってある神様だろうか?

小笠原新田0

水門から見える宇和島湾

丁度向かい側には宇和島造船が・・・
かっての賑わいは今は無い。

小笠原新田2

水門はもう1カ所

神田川と保手川が合流した河口にある。
昔の蓮畑、鯉や鮒を飼っていた名残が・・・

小笠原新田5

一面、葦の林

向こう側に見えるのは「宇和島南中等学校」である。
子ども時代は、蓮畑だった。

小笠原新田3

予科練橋より見る鬼ヶ城山系

今朝は黄砂もPM2.5もあまりないようで、すっきりしたいる。
江戸時代であれば、海の中・・・
しかし、狭い土地を広く活用するため、埋め立て埋め立て何も残っていない。
良いことか、寂しいことか考え方にも寄るのだろうが・・・

小笠原新田6
コメント
小笠原橋、懐かしいですね。この水路の東側には三好造船、森造船、宇和島ガスと大きな工場が並んでいましたが、戦後いちはやく森造船は閉鎖し、当主作一氏が処分したカネで川崎にアパート2棟と千葉勝浦に自宅を造り、本人は大きな造船会社の設計技師をしていましたが、2005年夏、脳梗塞で亡くなりました、私の商業学校の同級生でした。アパートは私の勤めていた石炭会社が借りたことがありました。
ガス会社は芝義太郎が関与していましたので、彼の評伝を書くとき取材に訪ねたことがありましたっけ。
昔は小笠原橋の道路は近江帆布女工、予科練生徒、新制南北両中学の生徒ら、時代とともに人々を替え、大勢が通ったものです。もっともあの時代は埃っぽい道でした。
この水路に沿って新田の側に梶田経雄君という同級生がいましたが、戦後早い時期に病没しました。住友金属工業に入社しましたが、真面目で鉄棒の巧い青年で過労が祟ったのでしょう残念なことをしました。
水路筋には松林がありましたが、いまは家が建て込んで小笠原新田の風情はすっかり変わってしまいました。思い出の多い橋です。
水路
小笠原新田はレンコン畑と長池、水門とあちこちに橋がかかっていました。天赦園の横から明倫小学校と城南中学校の間に南高に向かって水路がありました。今の交番横辺りです。水路にはセリがびっしり生えていて摘んで帰ると母がおかずに作っていました。水路には15センチ幅のコンクリートでなぜか?2つに区切られていてコンクリートの上を歩いていてコケて大怪我をした苦い思い出があります。足を切り鎌野医院で傷を7針も縫った怪我でした。水はバイキンのいないキレイな水だった。
過去があって未來
木下博民 様
誰も気がつかない小さな橋です。よほど伊達家の新田開発事業に興味が無い人は、小さな橋の名前か?という感じくらいですね。このようにして歴史は埋もれていくのでしょう。前にも書きましたが、御殿から上り立ち門に至る道筋に残っていた日本の松、切り倒されていました。歴史を大事にしない街、情けないですね。
記憶が薄れて・・・
うわつ 様
古戦場ですね。(懐)今でも分からないのは、書かれている水路の水の水源はどこだったのか?真水ですから神田川だろうと思いますが・・・それとも湧水?海に向かって城南のそをを右から左へ流れて居たような記憶が・・・
造船所辺りは想像がつきますが・・。何より「蓮畑」の字に目が。保育園児の頃(50年以上前ですぅ)
従兄の蓄膿治療でお灸の上手な方がいるとかで、久しぶりに親戚一同で宇和島にお出かけしました。その頃は「よそ行きの服」に着替えルンルンの外出でした。自分よりも背丈の高いレンコンの畑の中を通って治療院に行った記憶は鮮明です。ピンクの大きな花も咲いていた記憶が。松野から出て行ったくらいだから腕の良い治療院だったのでしょう。
思い出
吉野の食いしんぼう 様
 思い出と言えば「うわつ」さんも同様でしょうが、蓮畑の向こう側に堀がありました。お城の堀では無く、鯉などの養殖をする外側・・・ここには鮒がたくさん居て、学校から帰るとすぐに釣り竿を持って釣りに行きました。今と違って竹竿です。蓮畑、今より1m50cmほど下がったところでしたね。城南中のグランドも同じ高さでした。つまり1m50cmほどかさ上げになっているんです。
 ほんと思い出連鎖ですね。もう一時代昔に成ると木下先生の時代ですね。
 昭和28~30年頃の記憶だと思います。今の南校辺りの一面のレンコン畑を、日傘をさした母に手を引かれて歩いた記憶が鮮明に残っています。鬼城様のように江戸時代の地図やら陸地の場所やらが頭にない私は、幼い頃の貧弱な記憶に頼ってみるしかありません明倫小横の海でハゼ釣りをした記憶もありますが、あまりにも小さい頃の記憶なので、近辺の全体像が浮かびません。
思い出
tentijin 様
 ハゼ釣り、懐かしいですね。20年ほど前まで、明倫橋で正月前にハゼ釣りをしているおじいさんを見かけました。話を聞くと正月の雑煮のだし取りに使うとか。白魚にしてもアサリにしてもこれだけ宇和島湾や川が汚れていては、口にしたく在りませんね。汚すのはすぐ、浄化するのは、何十年・・・木々や植物も同じですね。道徳心を教えなかった(実践か出来ない)我々に責任があるのかも・・・
宇和島人気質
6月号の広報に「こんにちは市長です!」がある。いつもは読まないのだが、~気の利かない男~という小題でたまたま読んで、宇和島人の気質が出ていてガッテンしたのは私だけではなかっただろうと思う。
あらすじは3列シートの飛行機内でのこと、市長は窓際に座り、30歳くらいの男は通路側に座った。そこに若い女性が真ん中に座った。前列は空いているので30歳くらいの男が席を移ってやればいいのに気が利かない男だと書いてある。
おまけに、最後に思ったのは、日本男子たるものもっと周りを見て、特に女性には気を遣えよということ。きっとこの男はもてない奴だろうなと、個人的に優越感を持って飛行機を降りました。とまで書いてある。

なぜ、市長が勇気を持って自ら席を移るという行動が出来なかったのだろうか?
これが宇和島人なのだろうと思った記事でした。
雨模様
うわつ 様
 気が利く、気が利かないのでは無く、飛行機の座席は指定で購入している者だからでは無いでしょうか?若い男が私であったらやはり動かないでしょう。もう一つ、事故の時には座席表が問題となります。CAさんにお願いして記録的に残してもらうのであれば出来るかな?難しいことは分かりませんが、問題では無いと私は冷ややかに読みましたが・・・(笑い)
 お疲れ様でした、久しぶりの長旅、疲れたでしょう。

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