不思議なつながり | 鬼城

不思議なつながり

2014.02.14.Fri.15:00
もう何年になるか?

「うわつ」さんに勧められて、ブログを開始し、もう4年になろうとしている。
開始は2010年9月1日・・・
彼の写真は素晴らしく、お手本になる。
私も写真に興味はあるが、切り取りは難しく、なかなか絵にならない。
アップする中で、見て頂く人たちと不思議なつながりを感じるようになった。
通りすがりの人もいるだろう。
また、コメントを頂く方々もいる。
FaceBookにはまる気持ちも分からないではない。
これからも続け、いろんな人たちとの交流を深めよう。
昨日はその仲間たちとのオフミーティングで松野中を訪れた。
私は3度目の訪問となる。
訪問後、みんなで「吉野の食いしん坊さん宅を訪問する。
たのしい歓談、ケーキとホーヒーをごちそうになる。

素晴らしい時間と空間を経験した。

写真は松野中
松野町造り酒屋さんをイメージした海鼠塀

松野中
コメント
私も、母に皆さんを紹介しながら、どの方とも不思議な繋がりがあり、その方々が鬼城様とのご縁で今日ここに一同に会したのだ~と本当に驚きました。楽しい時間を過ごせたと言って下さり嬉しいです。

 さてさて、松野町民、それも何度か足を運んでいるにも係わらず、M酒店のイメージだったとは今解りました。なるほど。でも、今頃知るなんて恥ずかしいv-402
 とても楽しい時間をありがとうございました。
 我が家の近くの中学校も新しくなっていますが、完成が近づくにつれて「無味乾燥」的な建物が出来上がり、松中とはまったく違う感じがします。教室で学習する子供たちの人間形成には大きな違いが出てくると思います。財政だけの問題では無いような気がします。
 吉野のくいしんぼうさんのログハウスは、素晴らしかったですね。薪ストーブの炎が、本来人間が持っている感覚に火を付けるような感覚がして、とても気持ちが良く芯から温まる気がしました。やはり、我が家にも付けるべきだったな~。
吉野は吉田藩が都市開発した土佐との交易拠点、それに対抗して松丸は宇和島藩の交易拠点談他のでしょうかね。いずれも大きな酒屋があり、旅館が在り、芝居小屋まであった時代を思い出しまます。
酒屋では杉の葉で造った球形の看板が印象的です。海鼠壁の土蔵などはあちこちで見かけたものでしたが、いまは見ませんね。
感謝!
吉野の食いしんぼう 様
 小さな町なりに歴史は残っていますね。また新しい息吹を「鬼城太鼓」のみなさんの力で世界に発信されています。工夫改良する力が宇和島にもほしいですね。それなら「あなた」がといわれそうですが、組織力なんですね。松野は町職員、商店の組織力があります。まだまだ面白くなりそうで興味関心が湧きます。
 このつながりを大事にネットワークを広げましょう。
どこに予算を・・・
笑隆で~す。 様
 薪ストーブ、今からでも遅くない。奥様のご機嫌が良いときに・・・お嬢さんも喜ぶと思いますよ。しかし、薪の調達が大変かも・・・雑木では持たないようだし・・・
 松野の財政であのような木造は勿体ないという声も聞きましたが、未来を担う子どもたちにとっては素晴らしい環境です。子どもたちの顔の明るかったこと。また先生方も生き生きしていましたね。これが日本の教育なんでしょうね。教育にはその時々の環境が影響すると言われていますが、地域・先生・生徒たち、最高の環境です。宇和島も教育にもっと予算を掛けてもらいたいですね。
残す
木下博民 様
 芝居小屋、なつかしい言葉です。宇和島では融通座、つばめ座など・・・この歴史も兵頭賢一氏が書いていますね。それが何にも残っていない。城山の下にあった高村酒店の煙突もない。本当に何も残っていない町になってしまいました。ただ整備されてない、いつまでもブルーシートに覆われた城山だけ・・・何とかならないものかと市民はみんな言っています。
 海鼠塀はいまでは、造る左官さんも居ないようですね。昔はこて一本で仕上げていく職人さん方が大勢居たと聞いています。今では芸術分野で「こて絵」などという分野もあるようです。まだまだ田舎に行けば、屋根に家紋が着いた家も・・・日本の原風景、大切にしたいものですが・・・
撮り歩きの命名は
そうでしたね~カメラを持ってウロウロしていたので、「撮り歩きにしたら」と、私のブログの命名は鬼城さんでしたね(笑)~それから「なんよ」をつけました。「なんよ」は南予ではなくて、「XXなんよ~」の方言からつけています。
松野中に行ったことがないので春休みにでも覗いてみましょう。授業中は怪しまれそうですから(笑)
ブログ名
うわつ 様
怪しまれたら私の友人だと言ってください。それの方が怪しまれるかもしれませんが・・・(爆)ブログ初めて頃はうろうろで、本をお借りして勉強しました。~なんよ。方言ですね・・・いまでは年寄りしか使いませんが・・・
 誘っていただき、一緒に学校見学をさせていただき、感無量の部分がひょっこり顔を出しました。宇和島から見ると、鬼北は奥地で、昔から「奥」と呼ばれていました。松野は更に奥なのですが、明治生まれの父が通っていた学校は、松野にありました。不器男の生家があったのも、松野。その不器男の家の生業が養蚕業だったそうですが、その繭などを運ぶために予土線が松丸まで伸びたとも聞きます。当時は、奥でありながら、かなり開けていたのかなと感じます。松野町は、子どもを未来の大切な財産だと言ってきました。予算はおそらく、そのため(松野の未来作り)に何ができるかという発想の中から作られていったと思います。うらやましくも素晴らしい町であるようです。現代でも松野町は、ひょっとしたら、開けている町なのかも知れませんね。
焦点化
tentijin 様
 誘って良かったです。楽しく過ごせました・・・
 教育に力を入れている街はすばらしい。江戸時代でも子どもたちに学ばせる環境がある藩は歴史に名前が残っているところ・・・松野町は素晴らしいと思いますよ。宇和島市は学校数が多いからなどという声もありますが、同じような規模の武雄市(佐賀県)は日本一進んでいるところです。何に重点を置いて行政が進んでいくのかが大事だと思います。いろんなところに八方美人みたいにお愛想を振りまいているようではいけません。(笑い)

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