大超寺奥 | 鬼城

大超寺奥

2014.01.23.Thu.08:00
これは・・・?

寒い日だったが、時間に余裕が有り、散歩コースを外れ、大超寺奥の奥まで行ってみた。
このあたりまで来たのは、中学校以来だろうか?

すると見慣れぬ景色が・・・海抜200mほどの人家が途切れるところである。

大超寺奥0

お食事処「大朝寺」

ここが料理屋さんか?
女将さんが亡くなられ、廃業したと聞いている。
町名の由来は読んで字のごとく「大超寺」というお寺の奥の町・・・鬼ヶ城山系の大杉山のすぐ下になる。
昭和初期までは「丸穂村」である。
お城下とはほど遠い場所なのである。

この奥、登山口にはわき水があると聞いている。
このわき水ファンは多く、水をくみに来てコーヒーを入れるとか。
こんど挑戦してみよう。

大超寺奥1 

昔に比べ人家は少なくなっている。
道端に飢えられている紅白の「南天」

大超寺奥6

高圧線

左手の方向、山越えは柿原、右手の山越えは津島町・・・
この鉄塔は電力供給のためのライフラインである。

大超寺奥3



道には猪よけの電線が・・・
昔はこの辺り一帯は水田だったが、今は荒れ地か、畑に変わっている。

大超寺奥5

金柑

これも人が住んでいた名残か・・・
生らせすぎているのか、実は小さい。

大超寺奥4

中腹

急な坂道を降り、やっと中腹である。
眼前には宇和島市街地がみえる。
ここを降りると毎日の散歩コース・・・
このあたりも田んぼで一杯だった。
農業行政はどうなっているのか、どうなっていくのか?

大超寺奥2

コメント
私は、八幡村っ子で、少年時代は新開地朝日町で過ごしましたので、大超寺奥は全く知りません。大超寺奥も丸穂も元結掛も神田川の左岸、辰野川の右岸はすべて丸穂村で、大正九年に宇和島町に併合されたところですが、宇和島町と丸穂村は町村が分かれていても、丸穂の小学校は宇和島町中ノ町にあるという奇妙な村でした。逆に宇和島町は丸穂村がなければ半身不随の町だったでしょう。
それに比べ八幡村は港あり駅あり和霊神社あり北陽花街あり、開発可能な土地あり、なんとか自立できました。
大超寺奥の歴史を細かく調べておられる方はいませんか? アーネスト・サトウが見た実弾射撃城、どこにあったのか、現在の地図で実証できる方はいませんかね。
点在
木下博民 様
大超寺奥、野川は伊達家の重要地があったところですね。毎日散歩しているところには、伊達家の稲苗を育てていたと聞きました。このような奥まで開発をしていたのですね。現在は、ほとんど昔の方たちはお城下へ降りています。
実弾射撃場はどこか不明ですが、伊達家には資料が残っていると思います。鉄砲奉行の家系の方もご存命ですから・・・造った場所は宇和津彦神社の近所ですね。ここらあたりに射撃場はあったと思います。軍事訓練は三島神社・・・薬草園なども来野地区ですね。
 懐かしいですね。4年間家庭訪問で歩きました。当時は、学年2~3クラスあったので大超寺奥にもたくさんの子供たちがいました。
 「大朝寺」は教え子の家です。廃業したのは残念です。教え子は、兄妹ろって県警本部に勤務しており、刑事と白バイ隊員(女性白バイ隊員)をやっています。
 大超寺奥に別荘を建てればロケーションが最高だなと思っていました。日常生活を送るには大変ですがね~。
見晴らしが・・・
笑隆で~す。様
ネックは道の狭さですね。買い物に行くにも自転車では帰りが・・・高齢になるとどうしようか?しかし、景色は良いし、自然が一杯の利点もあります。全てうまくいくことはないですね。この「大朝寺」は十何年前ですが、半世紀ほど前には、この上の方に民家がありました。また大杉山への道筋にも一軒、大杉山には開拓団の方が・・・聞き慣れぬ言葉ですね。(笑い)
このあたりは子どもの頃のホームグランドです。
随分昔に野川に住む友人のご招待で、大超寺奥で食事会をしたことがあるのですが、見事に場所も献立も忘れました。
 その友人とのお付き合いで、最後の写真の辺り、散歩に付き合った記憶があります。色々な作物がつくってありましたがここでも、猪や鹿と戦っているのかとたんの塀が目立ちました。
 私も、山中暮らしに憧れましたが、親・親戚全員に反対され、せめてもと、敷地内にちっちゃな小屋を建てた次第です。
思い出の場所
吉野の食いしんぼう 様
山間部の里山も荒れ放題で、猪、鹿の遊び場となっているとか。春になったら山を目指して登ってみようと思っています。大杉山の中腹に滝がありました。市内から見えていましたが、今は見ることが出来ません。木が茂ったからか、それとも水量がないのか・・・
食事会が出来る場所はここしかありませんでしたから、間違いなく「お食事処大朝寺」ですね。今は無人のようです。もう一段上にどこかの別荘が・・・結構広く、大きな建物です。
新しい発見も有り、散歩は良いですね。
 最後の写真が大超寺奥の位置や雰囲気を良くうつしているように思えます。神田川の右手にも、やはり低い山があって、よく凧揚げに行った記憶があります。昔ながらの耕地整理をしていない田畑などは、どこも猪の遊び場になったり、自然の山野に帰っているのが大方ですね。昔、食料は田畑から生まれていましたが、今流に言うと、今では、スーパーで生まれているかのごとくですよね。
未来は?
tentijin 様
昔を懐かしんでばっかりではいけませんが、今、「食物はスーパーで生まれている」とは名言ですね。日本の各地、畑は荒れ放題のところが多くなっている。人は都会に集中する。地方は少子高齢化がすすむ。人口減・・・畑や山は荒れていく。十年後、二十年後にはどうなっているのか?
神田川の右手、今はアンテナが立っていますね。今登るような子どもたちは居ないでしょうね。
サトウの岩波文庫『一外交官の見た明治維新 上』の221ページに記載されている「宇和島には射的場として適当な広さの平地がないので、標的は七百ヤードほどの谷間を隔てた別の小山の中腹に設けてあった」とあるのを探したいのです。おそらく大超寺奥のどこかではないかと思うのです。
大超寺奥の奥
大超寺奥の奥まで行ったことがありません。この辺りに滝もあると聞いています。
あっ!!そうそう、これからずっ~と山奥に同級生が住んでいて、時々小学校に通って来ていたと記憶していますが・・・・・?
そんなことがあったような?なかったような?
野川
木下博民 様
おそらく宇和津彦神社の上手から潮音寺山に向かって撃ったと思います。ここに鉄砲生産の工場があったと聞いています。それにより、試し打ちは大超寺奥の谷の一つ北側「野川」ですね。鬼ヶ城からの谷は「丸穂」「野川」「大超寺奥」「妙典寺前」です。少し離れて南側が「薬師谷」、北側は「柿原」ですね。潮音寺山は子どもの頃、遊び場でした。今は道もなく、荒れ果てています。龍華の上の山です。大超寺奥でやったという記録がありません。
懐かしい!
うわつ 様
開拓団ですね。中腹にIくんの家がありました。今は最後の写真のところに自宅があります。彼は東京に住んでいるとか聞きました。いっちゃんの家とか、よく遊びに行きましたよ。市内からも大雨の後など滝は見えていたのですが、現在は・・・?春になったら登って報告します。(笑い)ただいま冬眠中!(爆)
鬼城さん。
たしかに宇和津彦神社の脇には馬場があって、ここに大砲などを造る溶鉱炉があることは分っていますが、射的場までここを跨いだ近くにあったとは、いささか危険なことですね。
謎解き
木下博民 様
今と違って野川の奥には人家はなかったと思われます。金剛山、龍華山が在りますが、その間に向かって撃ったのではないかと推測されます。現在は住まれていませんが、妙典寺前に砲術指南役の石川家がありました。作業場まで今の時間で10分程度ですね。地図でも発見されれば面白いですが・・・宇和島藩は幕末も謎ですね。蒸気船の建造も謎・・・

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