維新の門 | 鬼城

維新の門

2013.11.11.Mon.11:11
維新の門

愛媛県より高知県へ入ったところが檮原町。
平成の合併で最後まで拒み、独立を通した町。
この地は土佐勤王党と呼ばれる土佐郷士の面々が脱藩した道・・・

この場所は戦国時代の和田城跡、城を模した集会所がある。

維新の門1

 幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。

 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。

 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。

 その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。
維新の門「碑文」より

維新の門の像(8人)の人物紹介

平日の午前中だったので人は少ないだろうと思っていたが、駐車場には十数台・・・
結構若い方たちも来ていた。

この場所を清掃していた方(ボランティア)の説明を聞いた。
檮原町長さんの話・・・この方がいたから今の檮原町があると胸を張っていわれた。
またこの小さな町に人々が大勢来てくれることも・・・
しばらく維新の時代に思いをはせた。

維新の門2

指さしているのは未来の日本か?

先頭は那須俊平(那須信吾の父)
真ん中が坂本龍馬
後は沢村惣之丞

維新の門3

今にも動き出しそうな像

先頭は那須信吾
左横が前田繁馬
右横が中平龍之助
後方で号令をかけているのが吉村寅太郎

吉村寅太郎の像はふるさと津野町にもある。

維新の門4

真ん中に立つ像
龍馬達の脱藩を助けた神官掛橋和泉
 無事を祈る姿を・・・

母の戒めと志士たちとの板挟みで自刃する。
現在もこの神社はあり、子孫の方が後を継いでいると聞いた。

維新の門5

日本の夜明けを夢見て駆け出す志士たち
この像の見事さは動きを瞬間をとらえていること・・・

維新の門6
コメント
天誅組の墓
吉村虎太郎がどのような働きをしたのかも知らないのですが、梼原街道を走れば「吉村虎太郎生誕の地」なんて大看板がありました。たしか、天誅組だったと思うけど、その天誅組がどんな役割をしたかも知りません。でも、奈良で桜を追いかけているとき天誅組の墓を2度訪ねました。川の傍に墓が並んでいて聞き覚えのある(吉村・那須)墓もありました。たしか撮影もしたと思います。
志士たち
うわつ 様
天誅組は天皇を祭り上げるため孝明天応の大和行幸のおり、反幕府軍として挙兵する。しかし京都では八月十八日の変により天皇は動かず、天誅組は反乱軍の汚名を着せられ、処罰された。これがあらましです。この時代は、血気盛んな若者たちの活動の場でもありました。しかし、ほとんどの脱藩浪士は若くして亡くなっています。おそらく吉村寅太郎や那須信吾の墓などには詣でる人も多いと思います。この話には十津川藩が絡んでいます。
津野町の吉村寅太郎の銅像は大きいですよ。見事なものです・・・
この群像ができて間もなかったと思いますが、梼原へ行ったことがあります。お名前は忘れましたが郷土史家のご案内であちこち訪ねました。ここから伊予の方へ維新の道を歩きたいといいましたら、一人では蛇がいて危険だからやめなさい、といわれましたっけ。もう少し時間を掛けてみたかったのに、僅か半日しかいませんでした。というのは、このときの調査は「市村敏麿」の事績を辿るのが主目的でしたので。
それにしても、梼原は、土佐というよりも伊予の奥という感じですね。
木下博民 様
銅像を見るたび穂積陳重先生を思い出します。いろんな考え方があると思いますが、私は立像は何か味気なく、その人を表すにはふさわしくないと思っています。この群像には動きがあり、維新への熱意が伝わってきます。同じく高知には長宗我部元親初陣の像があります。この像も生きている感じがします。
それにしても先生の調査研究への熱意には驚かされます。
檮原は別名「県境の町」といい日吉村(現輝北町)と協力し」県境マラソン」などのイベントをやっています。奥伊予という名称は「旧野村町、旧城川町」一帯をさします。次のアップは大野ヶ原一帯と土居家です。
 昔、脱藩の道を歩きました。その後、別のルートが正しいとの説が出て、そこも歩きました。今もこのイベントは続いているのかな?
 この躍動感ある銅像は見たことがありません。我が家からはそんなに遠くない檮原町、いつか尋ねたいと思います。
 近くの土地で、こん大きな歴史のドラマが起こったと思うと、次に脱藩の道を歩くときはもう少し知識を持って歩かなくてはなんて殊勝な気持ちになります。
脱藩の道
吉野の食いしんぼう 様
銅像にもいろんな形があります。座像だったり、立像だったり・・・この維新の門の浪士たちは顔立ち、姿、動き、いづれをとっても迫力があります。龍馬博の折、この像は大人気になりました。是非行ってみてください。脱藩の道、走破は今でもやっていると思います。愛媛に入っても西予市や大洲市などでもやっていますね。長浜港から出たと記録があります。司馬遼太郎の竜馬がゆくに詳しく出ています。
我がホームグラウンドにようこそ。

何回となく梼原には行きますがこの町は新鮮です。見るところがたくさんあります。
脱藩の道、茶堂、掛橋邸、六志士の墓、歴史民俗資料館やさざれ石、千枚田や韮ヶ峠
等々いっぱいいっぱいあります。

何よりも、中越さんの昔ながらのソバや景浦工房での手打ち刃物類、雲の上温泉にちょっと足を伸ばしてYou farm 楽しさ満喫です。

又のお越しをお待ちしています。(笑)
ご無礼を・・・(笑い)
見所がいっぱいは知っていましたが、これほどとは・・・地元の人が胸を張って自慢するだけのことはありますね。ゆっくりしたかったのですが、天狗が目的地だったので掛橋和泉の生家の神社を見て登山口の津野町へ・・・この地名にはおもしろい話があります。山内が土佐に入府してきた折、長宗我部の残党が愛媛に逃げてきました。その中の津野氏・・・名前で素性がばれることを恐れ、改名したそうです。都能氏ですね。鬼北町にこの姓はあると思います。

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