干潟 | 鬼城

干潟

2013.07.08.Mon.18:00
朝の散歩コースをお城山一周から川を下り上っていくコースに変えてみた。
ちょっと違う景色が見えた。

旧予科練橋

ここ10年ほどの間にえさを求めてか、カモメが群生している。

鳥1


小笠原新田の水門

ここは昔から神田川、保手川の合流点であり、潮の満ち引きが大きいところである。
そのことを利用して、幕末の頃、小笠原兼助が干拓を行い、新田を作った。
いまではその面影は、宇和島南中等学校のグランドの端の水門にしか残っていない。

水門

優雅に遊んでいる様子

鳥2

几帳面な鳥?

一列縦隊!

鳥3

ネットで調べると「鵜」らしい。
鵜の仲間も「川鵜」と「海鵜」がいるそうだが、詳しくないので分からない。
この鳥を使って鵜飼いをするのだろう。

鳥4

恋泥棒、間違いもとへ「鯉泥棒」

悪名名高い鯉泥棒の冠が示すとおり、学校の池などから鯉を食料にしている。
最近では池に網をかけるところが多い。
アオサギか?
この鳥も干潟でえさを探している。

鳥5

白鷺

この鳥も小さいけれど、鯉もおそうと聞いている。
同じ干潟でも須賀川の方に群生していると聞いた。
鳥にも縄張りもあるのだろうか?

鳥6
コメント
コースを変えると
 私も散歩コースは大体決まっていますが、たまにコースを変えると色々違った風景や人に出会えてよかったな~と思えます。
 几帳面な鳥、思わず微笑んでしまいました。小鳥は可愛いけど、獲物を狙う鳥はちょっと不気味さを感じたりもします。カラスは賢くて執念深いとか・・・。昔ヒッチコックの「鳥」も恐かったですが。
丁度、「宇和島の予科練」を書こうと思っていましたので、少し教えてください
今、宇和島の高校生でどの程度「予科練」について知っているでしょうか?
宇和島に予科練生がどれほど居たか?ここに飛行機があったかなかったか?彼らは最後はどうなったか?ここに長崎原爆と同型の訓練爆弾が落とされたとき、どれほどの犠牲者がでたのか?いま、宇和島にここで訓練を受けた人が何人生存しているだろうか?
予科練の正式名称をご存知だろうか?戦後生まれ、平成生まれの宇和島人の戦争感覚を知りたいものです。今、宇和島では「戦争」についてどの程度学校で教えているのだろうか?
平和、平和とかもめの群れのように騒いでも、戦争の悲惨さは浮かんできません。平和と戦争は裏腹で、ちょうどヒチコックの「鳥」という映画がこれを暗示しているのですが。
戦争の悲惨さを宇和島では「予科練の実態」を語りつくことによって伝えてほしいものです。
鵜には川鵜と海鵜があるそうですね、鵜飼の鵜は海鵜で、いつだったか映像で物陰に隠れていてぱっと捕まえるところを見ました。捕まえた鵜を訓練して鵜飼デビューさせていました。
吉野の食いしんぼう 様
奇しくも、木下先生も「ヒッチコックの鳥」を書かれていますが、恐怖映画の最高峰ですね。自然界も乱獲や野放しが続くとこんな状態になってしまうんですね。朝の散歩コースは変化を付けようと思っています。我妻曰く「日が昇る前に歩いたら良いのに・・・」といいますが、日の出前、日没後であれば、夜の自由時間が少なくなる、そのため却下!(笑い)
残念ながら・・・
木下博民 様
 昨年、宇和島空襲を書かれていた、水野さんがお亡くなりになり、語り継がれている人も亡くなったと聞いています。予科練のことを知っている人がどれほどいるでしょうか?私は中学校時代(戦後15年)に予科練後の民家に友人がいてよく遊びに行きました。夏は現在、外国船が着くところが岸になっていて、よく泳ぎました。蛎殻がコンクリートに付着していましてね。友人のところは山羊を飼っていて、角を持って押し合いをしたことも記憶にあります。この程度ですね。予科練生や記録がいるのなら防衛省の広報課?だったかに聞けば教えてくれます。
 以前、江田島の海軍兵学校に「前原功山」の蒸気船設計図に関して尋ねました。本庁の係長さんから丁寧なメールを頂きました。写しは借りて、模写したと思いますが、戦後、イギリスの統治下の時、ほとんど焼却、その中にあったのでしょう。現在、残っている9,000点の中にありませんとのお返事でした。
鵜飼い
うわつ 様
未だ大洲の鵜飼いに行っていません。良い写真になると思うのですが・・・漁法の一つで伝統的な者のようですが、動物虐待にならないでしょうかね?そのあとかわいがってえさをくれるから良いのかもしれませんね。それにしても暑いですね。
梅雨明け
異例に早い梅雨明けです。
また今年も酷暑の夏がやってきそうですね(汗)

宇和島は市内を流れる川や海からの風で少しは涼しいのでしょうか?
子供の頃は、周辺に田圃が広がっていたので、
真夏でも比較的、過ごしやすい時間帯があったように記憶しています。
都市化によって便利にはなったようですが、
快適になったかと問えば、首を傾げます。

野鳥も学習します。
もっとも楽して餌にありつける方法を(笑)
昔は、周辺一帯に豊富に餌場があったはずです。
都市化が進まなければ彼らも「鯉泥棒」とは呼ばれなかったかもしれません?

木下さんのような戦争の実情を知る人が、どんどん少なくなってきています。
これは本当に怖いことだと思います。
高市早苗のような「私は戦争を知らないから」などという発言が
軽々しく政権与党の政調会長から出てくるのは呆れるを通り越して怖いです。

そういえば、ホッホさんの影響で最近、ヒッチコックの映画を何本か観ました。
「めまい」は昨年のイギリスで行われたオールタイムベストテンで第一位の小津の「東京物語」に次ぐ評価でした。
あの人の不安を煽るようなカメラワークは凄いですね。
戦争
ランスケ 様
 戦争を知らない人たちが増え、悲惨さを訴えることも特別なことのように扱われつつあります。実際、私も経験はないのですが、今の若者たちよりは終戦に近いところで生きてきましたから・・・また、先輩たちや年上の方々の話を聞き、少しは理解しているつもりです。松山や宇和島で空襲に関しての知識を持っている方たちが少なくなっている現実・・・是非、記録をしてもらいたいですね。
 小津安二郎監督の東京物語は昭和28年上映・・・構図が特別とか、シーンが・・・などと小津作品のすばらしさを見聞きします。それを現代風にアレンジしたのが山田洋次監督の東京家族ですね。小津作品と最も違う点は、内容の明るさと聞いています。早速見てみます。
ヒッチコック作品、私も大好きです。ホッホさんも見ているとは意外でした。<(_ _)>
No title
 今の明倫小の横の辺りに釣りに行ったことがあります。第2の父と行ったので、子どもなりにいいような悪いような思い出といったところです。あれが、昔の合流点の場所でした。南高の辺りは、天赦園を過ぎて延々とレンコン畑が続いていた気がします。子どもの頃の記憶なので、広さを延々と感じたのかも知れませんが・・・。
古戦場
tentijin 様
小笠原新田は良い遊び場でした。部活なしで帰宅後すぐ竹竿をもって・・・昔ですから竹藪から切ったものです。フナ釣りです。新田にはいけすがあり、鯉を飼っていました。沼地には鯉、ふながいました。狙いは緋ブナでしたが、一度も釣れませんでした。道をへだてての場所が「tentijin」さんがつりを楽しんだところではないでしょうか?ここではハゼがよく揚がっていました。正月前になると雑煮のだし取りのため、竿が並んでいましたね。グラスファイバーなどはそれからずーっと後のことですね。これも思い出・・・
私の本を書こうと思った経緯
私は、徹底的に自分の眼で見た戦争を書き残そうと思ったのが、本を書こうと思った初めです。
「戦場彷徨」「板島橋」「宝塚最後の予科練」「中国大陸戦痕紀行」など沢山書きましたし、水野政子さんの「会報」にもあれこれ書きました。防衛庁の戦争資料部も何度となく訪ねて習いました。問題は、現在、宇和島に戦争資料を集積しているところがあるか、ということです。宇和島市誌には戦争のことがありません。近辺の町村誌には出征した人戦死した人の名前まで丁寧に残されています。宇和島はあれほど破壊されたのに、丁寧な公式記録などありません。市庁舎が敗戦前後にどう変転したのか、ご存知ですか?
東京物語と東京家族との違いは家族の崩壊する姿です。私は、前者ではそうだ、そうだと思ってなんども見ました。後者はこれもいまの世代はこんなに違うのかとこれまた繰り返してみました。
ヒチコック映画とチャップリン映画は入手可能なものすべて所持し、繰り返し見ています。ロープや裏窓、映画テクニックの教科書になります。昨日も山田洋次の「霧の旗」を見ながら、決して悪者とは思われない弁護士がなぜ駄目になってゆくのか考えさせられ、早速、松本清張の原作本を読みました。
記録
木下博民 様
戦争の記録、水野さんの「宇和島空襲」、木下先生の著作、谷岡先生の著作以外では目にしていません。南文のところにあった市役所から、現在地に移るとき、地下倉庫に古い書類等を入れたと聞いています。探すのにも不可能に近いとか?津波が来れば終わりです・・・さてどのように保管していくのか?記録類をまとめられた方は聞いたことがありません。
和霊宮実記、初めて見る和霊さんの口伝・・・古文書なので少しづつ勉強をして読み解く仕事にかかりました。持ち主の許可が無いので明らかにできませんが、江戸時代か明治初期のものだとおもいます。それが済めば前原功山をまとめていきたいと思っています。これも想像でしかまとめることはできません。さてさて・・・来週は、初めて京都の祇園祭に行きます。宵山、引山ともに楽しんできます。

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