堀 | 鬼城

2013.05.18.Sat.08:00
幕末の宇和島

先月、28日ラジオウォークの案内役を頼まれた。
そのスタート直後、質問が・・・
宇和島の地形に関してのものだった。
宇和島という地形は、鬼ヶ城の扇状地みたいなところで、海の辺に小山(80m)がある。
ここに目を付けた藤堂高虎が1601年に築城をしたのが宇和島城である。
有名な話は変形五角形の堀・・・
江戸時代の徳川の隠密が長方形と見ま違い、記録が残っている。

個人的に残念なのは、堀が埋め立てられ、国道になっていること。
もう、復元はできない。
当時、高虎は海水を取り入れた掘り割りを作っていた。
もう一つの特徴は自然を利用し、二重堀にしたこと。
堀はなく、川を外堀にした。
画面左「辰野川」、右「神田川」である。

この地図は個人蔵のもので、コピーを取らせて頂いた。
川が二重堀の役目を担っていたのがよく分かる貴重な地図である。
年代は記入されていない。
おそらく慶応あたりの幕末だろう。

古地図
コメント
No title
地名や昔話で聞いたことはありましたが、貴重な地図ですね。お堀の水は、海水?真水?どっちだったんでしょうね。
お堀
 昔、とっても気に入った傘をバスに忘れ、宇和島自動車の事務所に取りに行ったことがあります。たしかそこが「堀端」の地名だった記憶が。地名には残っていても実在しないので、この貴重な資料を見せて貰い、納得です。残っていたらお城の風景や格も違ったでしょうね。
tentijin 様
統合高虎は海と川と背面の鬼ヶ城を柱として築城しています。堀は海に面していてその利用をしたものと思われます。しかし、種別は海城ではなく、平山城なんですね。
残念ですが・・・
吉野の食いしんぼう 様
堀端の地名は、そのまんまですね。追手門があったところは大手通りでした。子どもの頃、和霊様の祭りの帰りに追手門食堂があって、そこでかき氷を食べるのが楽しみでした。家に帰れば、井戸で冷やしたスイカのご馳走が・・・昔懐かしい思い出とともに宇和島は大きく変わってしまいました。木屋旅館前の大きな柳の木も堀端の名残だったでしょうね。
城山
宇和島の城は、藤堂高虎以前から城であったことを伝えてください。戦国期以前からでしょうな「板島城」として西園寺の出城であったのです。戸田勝隆などはこの城を重視しています。彼の所業は「清良記」に詳しく書かれています。高虎になって板島を宇和島と改めました。彼はこれまでの城郭を改修したに過ぎません。そう思ってきましたが調べてみてください。
この地図は珍しい。19世紀中頃の地図のような気がします。干拓されているところを調べれば直ぐにわかります。これこそ学芸員の皆さんの得手でしょう。六層掘(いまの須賀川の朝日町2,3丁目から見返橋あたり)が綺麗に描かれていますから。よく判るように複写して公表されるといいですね。
よく宇和島の城で堀のことを言われますが、この程度で防衛の役には立ちませんし、天守がそうであるように攻められることを想定した城だとは思われませんね。
いま堀端と称する辺りの堀を埋め立てたのは明治の終わりですから、そんなに遠い昔の話ではありません。もっとも昨今の宇和島の歴史に興味のない方のお気持ちでは明治も大正も昭和もひっくるめて昔と言ってしまわれます。鳶舞って昭和も遠くなりにけり。


板島丸串城
木下博民 様
 串とは半島の意とか・・・その山頂に出城を築いたから海城ではなく平城の分類とか聞きました。掘り割りは土地の狭い所為もあると思いますから幅はあまりなかったと思います。昔の川は今ほど狭くなく、ある程度の防御はできたと思います。神田川などは昔の幅の半分ほどですね。道を広げたことにもよるのでしょう。中世の歴史の研究をされている方は少ないですね。
 宇和島歴史文化研究会の学習会6月は西郷隆盛、宗城の会見記(宗城お手留日記より)の解読です。講師は近藤先生・・・会見したことは知っていますが、宇和島側から見た西郷の実像は、考えはどうだったか?興味を持つところです。
古地図
古地図を時々雑誌や映像で見ることがあるが、航空写真のように描かれているのに驚きます。
中には空を飛んで描いたのか?と思えるようなものもあった。
宇和島は埋め立てられて町が変化しているので、いろいろな地図があるようですね。

古地図、復刻して売られてはどうですか
先の頃なくなられた兵頭貴明さんの宇和島鳥瞰図など宇和島の財産だと思うのですが、案外どなたも関心ありませんね。おそらく図書館にもないでしょう。
この地図なども一個人が仕舞っておられないで、復刻して売られることですね。博物館に行けば、宇和島の古地図は求められるというようになるといいですね。
不等辺5角形
うわつ 様
宇和島城で有名なのは、取り囲む堀が四角形に見せかけ、不等辺五角形にしているところだそうです。徳川の隠密が江戸中期に宇和島城か絵図を書いたものは四角形になっていたとか。目くらましですね・・・まだまだ地図の発見がルカもしれません。
まだあるかも・・・
木下博民 様
故人の方の家には、まだ存在しているかもしれません。博物館で販売しているものは、財団のものが二枚在ります。元禄と安政年間のものですね。復刻は、予算が掛かりますから、何処がやるのかにも寄りますね。
何をやるにもお金が必要です。
ただ、宇和島ほど埋め立てや戦災で街の様子が変わっているところでは、きちんとした記録を伝えるようにしなければなりません。いまは、明治も大正も昭和もゴチャゴチャにしている人が多すぎます。
この時代を生きた人が居る間にきちんとした記録を遺して置きたいものです。それぞれ個人によって視点が違いますが、よく研究され発表されますことを祈ります。カネはそう思った人が自ら出すのでしょうね。自ら出す資力がなければ、いかに他人を説得するかでしょうね。
出所
木下博民 様
目的が一つなら出費も可能ですが、人、行政それぞれ優先順位があります。ご多分に漏れず、私もそうです。旅行や映画鑑賞、情報教育などにほとんど費やされます。宇和島の歴史に関しては、仕事柄と言うこともありますし、ソフト面での協力が主なものですね。何をするにもお金ですね。

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