城と藤 | 鬼城

城と藤

2013.05.03.Fri.18:00
藤の季節

新聞、テレビとうで藤の花の名所が紹介される。
山には白、紫の山藤が咲き誇っている。
小さな公園に藤棚がある。

藤と城1 

公園の名は三角公園

不思議な敷地である。
片側四叉路の道をうまく使うようにできている。
この三角地帯は江戸時代の地図にもあるので、当時の士が考え出したこと。
市立宇和島病院の上手にある。

藤と城2

藤の幹は大きい

藤棚は鉄パイプで補強されているのがつや消しだが、丈夫そうである。
通りがかりの人が、スマホなどで写真を撮っていた。

藤と城3

城に藤を入れて撮ってみた

絞り開放で遠近感を・・・

藤と城4

逆の設定

藤に焦点を当て、城はぼかしている。
写真技術は下手なので、何でも練習のつもりで・・・

藤と城5
コメント
No title
 1枚目の写真は、藤色という言葉が、この花のちょうどいい具合の紫を藤色としたことを納得することができる印象的な写真ですね。城とのコラボでは、藤の花房の量がもっと多ければ、4枚目の写真がよいように感じます。3枚目のアングルもおもしろいと感じます。素人考えですが。
配置
tentijin 様
思うように行かないのが、配置ですね。練習です・・・何時までも練習ではいけないのですが・・・ここ三角公園は避難場所だったのか、江戸時代からあるんですよ。変則の四差路ですね。
今年は藤に恵まれませんでした~花は時期が短くて待ってくれませんから。あ~そうか!!あそこにも藤がありましたね。そういえば吉田公園にもあったのを思い出しました。もう遅いですけど・・・・・
知ってま~す
 ぼんやりの私も、そこは知っています。幹の太さからもかなり昔から花を咲かせているのですね。明日はFFさんと久しぶりに会うので話題にしたいと思います。宇和島城を愛する鬼城さんの写真だと思いました。うわつさんが奥内の棚田を撮っておられました。地元の美、再認識しました。
不思議な広場
市立病院の東側にある広場のことですね。昔、神田川を渡って狭い道をゆくと広場になるそこにはなんとも不思議な道路がいくつもある。子どものころから何故だろうと思っていました。
昔、宇和島の町には阿弥陀籤のような横町があって不思議だなあと思ったことがありました。商業学校のとき、宇中や青年学校との合同で市街戦の軍事演習をやったことがありました。このとき、いびつな横町が攻撃側(来村から和霊神社の防衛陣地を攻める演習なのですが)を混乱させたことがありました。そのためにわざわざ不定形に道が造られているのかな、と思ったことがありました。戦災で横町は整備されましたが、市立病院脇のあの場所だけは昔のままなのかなと思ったりしました。市街散歩をおやりになるとき、一度、皆さんの意見を聞いてください。何故、不思議な広場になったのか?
疲れて
うわつ 様
動きが鈍くなり、あまり動けていません。2日だったか、久しぶりに市内を10kmほど歩きました。昨日は家で沈没・・・徐々に伸ばしてく方法がいいですねと反省しきりです。吉田公園の藤は見事ですね。
地元以上に
吉野の食いしんぼう 様
「うわつ」さんは地元以上に被写体が詳しいですね。ようもまあ、この近辺よく知っていると思います。棚田にしても鬼北や松野、西予市・・・果ては日本全国まで・・・
F.Fさんにお会いするとか?中村勘三郎のBSだったか、追悼番組(見ているだろうとは思いますが・・・)、お入り用ならお持ちしますと連絡を・・・
昔、昔の出来事
木下博民 様
先日のラジオウォークで案内したとき、昔の町名を調べました。六兵衛坂などは宇和島の人でも知らないでしょう。この三角公園も通る人は居ますが、なぜこの形にと考える人は、皆無だと思います。個人的な見解ですが、おそらく避難場所だったろうと思います。江戸時代はなにより火事の心配が在ったようですから・・・地震・雷・火事・おやじのいわれの如く、その対策をしていたのだろうと思います。さて今の政府は、その対策をどうするか?先人の知恵に学ぶべきかもしれませんね。
No title
吉野のくいしんぼう様
棚田や段々畑のように、先人たちが動力のない時代に知恵と工夫で生きる糧を求め得るため、おそらく気が遠くなるような労苦を重ねて築いたであろう棚田は美しいです。そんな棚田から元気をもらっています。
そしてその棚田を前にして、いろいろなドラマを想像しています。爺さんも婆さんも子供たちまで棚田造りをしてたのでしょう。何年か経て初めて稲が実り米が収穫されたときはどんな光景だったろうか?飲めや歌えの大騒ぎだったのでしょうか?それとも・・・・
畦がセメントで固められてゆくのは寂しいです。
江戸と火事はつきものでしたが、宇和島城下ではどうでしょうか?
宇和島が完全に消滅したのは昭和の中期、空襲程度でしょう。
藩政期、宇和島のそれほどの火事があったでしょうか?それよりも地震は起きたでしょう。
街づくりは、「防衛」第一でしょう。とにかく不思議な広場です。
旧町名碑があちこちにありますようね。あれを建てるよう提案したのは公明党議員だったと思います。宇和島は不思議な町で、いまだに旧城下町については熱心ですが、来村、丸穂村、八幡村地区については文化課もさして関心がないようです。この地区の明治、大正、昭和史を真剣に調査されている方が居られましたら教えてください。
旧町名
木下廣民 様
 旧町名の方が私はなじみ深いですね。新町名にするためには、相当な予算が掛かったと聞いています。もう元には戻せないでしょう。昔の村などに菅氏の研究をされている方は聞いていません。文化課も人数が少なく、仕事量は増え、文献調査など時間外でやっているのが現実です。亡くなられていますが、松本麟一さんあたりが研究されていそうですが・・・ほかホームページで見つけたものです。 http://www9.plala.or.jp/uwajima-uwajima/timei.html

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