ラジオウォーク | 鬼城

ラジオウォーク

2013.05.05.Sun.08:00
ぶらり宇和島 伊達な街歩き

イベントの案内役を仰せつかった。
仕事の上で協力していただいている関係上、お断りできなかった。
適当にとも思ったが、リスナーの方々が居る以上、粗末なことはできない。
MCさんと責任者とリハーサル・・・そしてシナリオを執筆・・・
今回は写真の合間にその案内内容を入れた。
各ポイント場所には案内人の方が居るので、できるだけ別の話題としている。

9時過ぎには、参加者300人の予定が、400人ほどにふくれあがった。
「きさいや広場」での受付風景である。
オレンジのTシャツがスタッフのユニフォーム・・・

ラジオウォーク1
 

石橋寛久宇和島市長の主催者代表挨拶

宇和島市役所保健福祉課の方による準備運動(ストレッチ体操)
出発準備が整ったので13代宇和島伊達家御当主宗信様による鬨の声・・・

ラジオウォーク2 

これからがシナリオ

 ただ今紹介がありました、「鬼城」ともうします。元々は教員で、退職後に伊達博物館勤務をいたしました。皆さんは私が社会科の教員、あるいは歴史が専門と思っているかもしれませんが、専門は「物作り教育」で、最近では教育事情から情報教育が専門なんです。FMがいやのパーソナリティを務めた「伊達博通信」では大変お世話になりました。今日はよろしくお願いします。
 Kさん、宇和島湾に注いでいる川がいくつあるかご存じですか? 大浦の広見川、須賀川、畑枝川、辰野川、神田川、保手川・・・支流があったり、小さな川はまだありますが、これだけあるんですよ。1601年に藤堂高虎が宇和島城を築城したとき、辰野川、神田川に目を付けました。城には当然、堀が必要です。その2重堀の役目をこの川に与えたのです。鬼ヶ城山系にしがみついている地形と言っても過言で無い宇和島、土地は狭く大変な時代だったんですね。今、みなさんが歩いているところは海だったんですよ。
 旧ロータリーまでやってきました。ここは交通の要です。国道56号線と駅前道路、宇和島道路バイパスへのアクセス道路、昔の宇和島別府航路の船着き場への道路と5差路ですね。左回りに廻っていたのですが、交通量が増えてきて事故多発地点になったため、昭和59年に信号による交差点へ変貌を遂げました。ロータリーの真ん中は埋め立てられました。ここを畑枝川は流れているんですよ。昔は海にちなんだ料理屋さんがありました。私が知っている店の名前は「かき舟」とか「かき代」ですね。
 小さな街、宇和島にはもったいないくらいの広い道路ですね。さて駅前通り、別名「ワシントン椰子通り」です。Kさん、このワシントン椰子は何メートルくらいあるか分かりますか。17mほどあるそうです。昭和39年頃、96本植えられたときは1mだったそうです。私は大学生でした。今ではこんな高い木に育って・・・改めて年月の経ったのが分かります。また、あまり知られてはいませんが、「新・日本街路樹百景」に選ばれているんですよ。この選ばれた中には、仙台市の定禅寺通や日光杉並木、大阪御堂筋など有名な通りがあります。残念ながら信号機移設のため、恵比寿町交差点から西の椰子の木が平成18年伐採されました。この駅前商店街も昭和から平成にかけて宇和島の街を見つめてきています。宇和島市では駅前再開発のプロジェクトが立ち上がっているようです。詳しくは宇和島市のホームページをご覧になれば分かると思います。

大和田建樹記念碑
 
  大和田建樹(おおわだ たけき)の記念碑まで来ました。この人は幕末の[宇和島藩士の家に生まれ、東京の南予明倫館(伊達家の藩校)で学び、東京師範学校(今の筑波大)で学んでいます。詩人で鉄道唱歌や散歩唱歌、故郷の空、靑葉の笛などを作詞した人ですね。新橋駅構内にも彼をたたえた「鉄道唱歌の碑」がありますね。宇和島に来て駅に降りたら、闘牛の横綱牛の彫塑、大和田建樹の歌碑、汽車ぽっぽが迎えてくれます。駅前広場に展示されているこの汽車ぽっぽは軽便鉄道である宇和島鉄道の時代に走っていたコッペル社(ドイツ)製1号機関車のレプリカです。作詞家大和田建樹の出身地ということで、鉄道唱歌のメロディが流れる装置が手前に設けられています。ちなみに「宇和島鉄道唱歌」もありますが、作詞は南予時事新聞社主幹小林葭江さんです。

ラジオウォーク3 

高野長英住居跡

 さて時代は幕末の宇和島藩、高野長英の隠れ家、家老桜田佐渡の別邸です。建物自体は明治の頃のものと言われていますが、敷地は当時のままです。住居は五岳堂と言ったようです。高野長英は奥州水沢の生まれで蘭医、長崎のシーボルト鳴滝塾で学び、外国語にも堪能で当時の攘夷には批判的でした。シーボルト事件はうまく逃げ通しましたが、そのあと幕府批判の罪「蛮社の獄」では捕らわれて伝馬町の牢屋敷へ入獄されました。牢屋敷の火災により脱獄し、鳴滝塾での同門の二宮敬作の導きで宇和島藩の蘭癖と言われていた宗城にかくまわれました。宇和島での生活は1年あまりと言われています。宇和島藩の若者達に与えた影響は計り知れないものがあります。幕府の追っ手が厳しくなり、宇和を経て江戸に・・・江戸で捕らわれて自尽しました。当時の宇和島には金剛山に勤王派の晦巖老師がいました。長英のみならず、勤王浪士をかくまうための隠し部屋が金剛山には残っています。長英の宇和の隠れ家にも隠し階段や隠れるための小部屋なども現存しています。
 なぜ隠れ家をこの地に・・・住宅の裏には辰野川が流れています。追っ手に追われたとき、すぐに川から逃げることができるんですね。幕末の勤王の志士たちが追っ手から逃げたのも川ですね。何処へでも行くことができる、広い世界に繋がっている川は便利だったんですね。

ラジオウォーク4 

穂積橋

 次は穂積陳重先生、生誕地は京町にありますが、ここ穂積橋にはいわれがあります。穂積先生は明倫館で学び、法学のパイオニアで15歳で大学南校(現東京大学)に入学、法律を専攻し、のちには法学部長まで務められました。大津事件では、このあと訪れる児島惟謙の銅像のところでも説明する「大津事件」で「犯人死刑論の非」を論じ、児島惟謙を励ましたと言われています。非常に面倒見も良く、市民に慕われ、銅像建立の話があったとき「胸像となって同郷の万人に仰ぎ見らるるよりは橋となって公衆に履んで渡らるるを以て無上の光栄となす」と言って辞退しました。辰野川の新開橋架け替えの時、この橋に「穂積橋」と名付けられました。余談ですが弟「八束」も法学者で、現在も穂積家は法学一家として日本で有名です。

ラジオウォーク5 

伊吹竜心太鼓「無邪鬼」のメンバーの皆さんの和太鼓演奏
生の和太鼓は迫力があります。

ウォークは銀天街の中を通って一路、寺町通りへ

 牛鬼についての起源は謎が多く、断定できないが加藤清正の朝鮮出兵の折、城攻めに使った亀甲車が藤堂高虎によって南予一円に広まったと言う説があります。それ以前、枕草子にもあるとか。現在では魔除けのためのもので通用しています。つまり縁起物ですね。南予地方の祭りには牛鬼の顔、形は違っていても、必ずと言って良いほど牛鬼をかついでいます。和霊祭りにかぎらず、お練りとして定着しています。7月の23、24日には山家清兵衛を祭った宇和島の夏祭りが開催されます。それと同時開催されるのが「うわじま牛鬼まつり」の一大イベントなんですね。

 はっきりさせておきたいのは、和霊神社の夏祭りと牛鬼の関係は直接には関係はありません。牛鬼は主役では無く、ご神体を担ぐ御輿の前のお練りなんです。ただ、何をメイインに据え、盛り上げるかで牛鬼となったようです。おなじく「ガイヤカーニバル」も同様ですね。その頭の制作は複雑で難しいんです。木彫りで漆塗りのものから張り子のもの、段ボールで作成するもの、種々様々ですが、市民の愛好家の皆様方が作られた頭がここに並んでいます。顔立ちは違っていて、作成者の思いがこもっていますね。
 さあ「宇和島の新名所」では在りませんが、最近隠れファンが多い辰野川の寺町通りに向かいます。寺町通りは名前の如く、お寺がずらーっと並んでいるところから名付けられました。上流から大超寺、金剛山、龍華山、潮音寺、選佛寺、西江寺、立正寺、明源寺、真教寺、浄満寺、龍光院(丑寅で北東、鬼門)・・・11ヶ寺、何故こんなのお寺が多いのか不思議です。お城の北側だけでなく、南側にも寺町通りはあり、多くのお寺があります。昔の武将達の信仰心の表れかもしれませんね。

 宇和島で唯一人の名前が付いた六兵衛坂を通り、赤に塗られた辰巳橋(辰巳は南東)を渡ってえんま様で有名な西江寺まで来ました。旧暦1月16日の藪入りの日にえんま祭りが開催されます。このとき畳8畳敷きの村上天心作の「えんま大王」の絵が掲げられます。この寺の枯山水の庭は県指定の文化財にもなっていてすばらしいものです。また幕末の偉人「前原巧山」のお墓もここにあります。幕末、町人が黒船が来た3年後に作り上げた蒸気船(火輪船)、わずか二ヶ月の差で鹿児島薩摩藩が日本で最初に成功しましたが、町人が作った偉業はたたえるべきですね。その功績で喜市といっていた名前から、宗城に士分に取り立ててもらい「前原巧山」と名乗ります。

 川端に大きな木があります。市指定の天然記念物黒柿で、植栽したものでしょうか?秋には2cmほどの実がなりますが食べることはできないそうです。もともと7本あったのですが、現在は5本になっています。堅い木で茶道具や箪笥に使われているようです。次は選佛寺、ここは萩の花で有名なお寺です。別名萩寺・・・そして潮音寺ですが、現在は無住です。この寺の扁額は5代村候の書で現在、伊達博物館に保管されています。

ラジオウォーク6 

竜華山等覚寺藩祖秀宗の墓の前

 宇和島藩伊達家の藩祖秀宗公が眠る龍華山等覚寺までやってきました。この寺は私が子どもの頃から「竜華」と言っていました。お寺の名前等覚寺と呼ぶのが普通ですなんですが竜華と呼びます。理由は秀宗公の法名「等覚院殿」にあります。等覚寺と言ったら、藩主を呼び捨てにするという理由から山号を呼ぶようになっているとのこと。同じく金剛山もそうですね。「大隆院殿」という法名は5代村候公のものですから・・・

 山門前には素晴らしい松が植えられています。多行松、別名美し松ともいいます。もともとは赤松で、その変種です。伊達家の名園「天赦園」入り口にもありますね。山門を入ると左手には「利休梅」が・・・茶花によく使われることからこの名前が付いたとか。これだけ大きな株はあまりありませんね。その続きには「牡丹の花」が・・・時期を過ぎていますから花を見ることはできませんが、あまりの見事さに別名「牡丹寺」とも言われているそうですよ。参道の真ん中には、むかし龍吟の松がありました。幹周5.7m、樹高35m、枝張り25mの大木で子どもの頃、よく登って遊んでいました。伐採され見ることができませんが見事な松でした。前庭には伊達家がもともと藤原の出ということで藤棚もあります。さあ秀宗公の墓所を参拝しましょう。このお寺には初代、2代宗利、3代宗贇、4代村年、6代村壽、7代宗城公が眠っておられます。

 他の藩主は金剛山に眠っておられます。5代村候、7代宗紀、9代公が宗徳公が・・・

ラジオウォーク7

旧町名

 ここらで旧町名の話をしましょう。このあたりを大工町と言います。昔、大工さんが住んでいたところですね。鋸町もおなじです。昔の町名はわかりやすかった。大きな石があるところから大石町、笹が生い茂っていたところから笹町、龍華山の前あたりを竜華前・・・鎌原氏が住んでいたところから鎌原通り、大きな榎があったところから大榎通り・・・非常にわかりやすい名前ですね。

木屋旅館

 堀端通りから追手門があった近くまできました。ここが木屋旅館です。私事ですが、もとの持ち主の、故平川恒三さんとは、教員時代にお付き合いがありました。私の城南中時代のPTA会長さんです。研修旅行で熱海にいったことが、つい昨日のことのようです。この旅館は明治44年に創業されています。政治家では後藤新平、犬養毅、作家では司馬遼太郎、吉村昭、五木寛之のほか、国語学者金田一春彦らが宿泊しています。明治時代の旅籠の面影が残る木造2階建て。 平成7年、惜しまれつつ廃業しました。それ以後、そのままにされていましたが、平成24年春、新しい滞在型の観光名所として再生されることになりました。聞いたところによると司馬遼太郎氏の「花神」はここで執筆されたとか。公益財団法人伊達文化保存会の古文書類を持ち込んで山積みにしたものを前に執筆されていたとか・・・これも私事ですが、昔から吉村昭氏の小説が大好きでした。技術関係の「戦艦武蔵」「高熱隧道」「零式戦闘機」にはサインを頂いています。宇和島大好き人間たちのたまり場「木屋旅館」、これからも多くの方々の憩いの場になることを祈念しています。

ラジオウォーク8
 

山家清兵衛住居跡(和霊神社)

 国道56号線を横断します。この国道は昔の堀の後です。ここに大手門がありました。大手門をくぐり堀を渡った所にあったのが総奉行山家清兵衛宅、現在は丸の内和霊神社です。ご存じのように宇和島伊達騒動のもとになった山家邸・・・1620年の6月晦日(新暦7月29日)に秀宗の命を受けた黒装束の武士達が切り込み、山家清兵衛を始め、8名のものを惨殺します。仙台藩四代藩主綱村の「御成敗のこと」という手紙のみで、他の記録類が一切無いため、この事件に関しては聞き語りでしか、残っていません。幼子は井戸に投げ込まれ死亡、この和霊神社裏手にある井戸は子どもの守り神になっています。

児島惟謙銅像と上り立ち門

 初代秀宗の頃の御殿は現在の桑折家長屋門あたりから消防署にかけてありましたが、2代宗利公からあとは現在の伊達博物館の所に移築されました。殿様は御殿を出ると上り立ち門から登城、家臣達は豊後橋を通り、搦門から上り立ち門まで行き、そこから登城したと聞いています。その上り立ち門までやってきました。横には児島惟謙の銅像があります。児島惟謙はご存じのように司法権の独立を守った護憲の神と言われています。大津事件、ロシアの皇太子ニコライ2世を切りつけた巡査に死刑をという政府に対し、正式な裁判を開き、その命をまもったというもの。それには穂積陳重の功績もありました。銅像のお顔には勇気と凜とした信念とが表れています。
 お城には必ず守り神を祭っています。宇和島城の守護神は日吉神社、明治時代に鶴島神社と改名されました。もう名前を知らない人も多いと思います。現在では南予護国神社と名前が変わっています。ここの祭りは有名で御輿も三台あり(そのうちの一台が郷土資料館に展示されています。)、お練りもたくさんありました。北白川富子さんをお迎えした大正14年の貴重なフィルムも残っています。この北白川家の歴史も非常に面白い。吉村昭先生の遺作「彰義隊」に詳しく書かれています。鶴島の名前は、いろんな説がありますが、五代村候のときに、鶴が羽を広げた形に似ていると言うところから付いたという説が一般的です。渡り鳥の鶴が宇和島城で一休みという説もあります。小さな天主ながら非常に美しい城ですね。

ラジオウォーク9
 

ゴール(城山公園)

ゆるキャラ、モー二ーちゃんも一緒に

ラジオウォーク10
 

迎えてくれたPumpUpDanceSchoolのみなさん

ラジオウォーク11
 

愛の葉ガールズ

一緒に歩いて頂いた「愛の葉」の皆さんによるLIVE
最後を飾るのに素晴らしいパフォーマンスを見せてもらいました。

突然、MCのKさんより質問が・・・鬼城さんにとっての宇和島は?
これは想定内のこと・・・答えは
 安易な表現で申し訳ないのですが「故郷」ですね。自分を育ててくれた街、自分が生きてきた街、これからも生きていく街ですね。そのためには先人達が築いたこの町を大事にしていかなければならないと思っています。今回は城の北側でした。次回は南側、あるいは海側など、いろんなコースが設定できると思います。このラジオウォークが今後も続いていけるようお願いします。つたない案内役で申し訳ありませんでした。私にどこかで会ったときは、いつでも何処でも、お声がけください。このような機会を与えて頂いたことの感謝し、案内役を終わらせて頂きます。ありがとうございました。
 
抽選会

このあとゲーム機など当たる抽選会もあり、一大イベントが終了しました!

ラジオウォーク12
コメント
おつかれさま~
ずいぶん歩きましたね~日ごろからトレーニングしているのでへっちゃらでしょうか?
400人とは凄い。次の仕事は宇和島発展の仕掛け人になってください。
意外でした・・・
うわつ 様
初めての手作りイベント・・・昨年は大手放送局でしたから・・・しかし、生放送は訂正がききませんから大変でした。イベントも一過性のものでは無く、細く長く継続できるものが良いですね。趣味の写真も同じですが・・・(笑い)歩くのは大丈夫ですが、他の人のスピードに併せて歩くのは疲れました。
お疲れ様でした
 情報を早くから頂いていたのに参加出来ず残念でした。故郷を愛すること知ることは大切なことだと、最近とみに思うようになりました。
 和霊神社の夏祭りと牛鬼とは直接は関係ないのですね。

 魚屋さんと花屋さんに挟まれた六兵衛坂、その名を気に入っています。
若干、説明文の間違いをお知らせします。
大変、熱心にお調べなさって、感激したいます。有難うございました。
1 大和田建樹が、東京の宿舎「明倫館」に居たことは考えられません。彼は、藩校「明倫館(彼のいたときには名前は違っていたかもしれません)」では学びましたが、東京の明倫館にはいなかったはずです。時代が少し違います。
2 穂積橋の旧名は「本開橋」で、「新開橋」ではありません。
3 平川君は、「恒三」ではなく「幸三」のはずです。
4 高野長英は宗城の実家山口家にも出入りしていて、早くから宗城は長英を知っていたはずです。二宮敬作は、高野と鳴滝塾で知り合ったことはわかりますが。
5 牛鬼については、きずなの夏号に「牛鬼考」を書いておきましたから、参考にしてください。
6 日吉神社が鶴島神社に改名されたのではありません。日吉神社の社域を使って鶴島神社を新たに造ったのです。鶴島神社が南豫護国神社と改名されたことは事実です。ですから、いまの神の主神は伊達の四公のほかに戦没者が祀られていると言われていますが、伊達家先代当主はこれに疑問を持っておられました。
7 北白川宮のこと、吉村昭は富子妃のことはほんの少しだけです。詳しく書きたいと思っています。
8 村上天心は、生粋の宇和島人(須賀通で生まれました)です。詳しいことは黒田幟旗店のおばあさんに聞いてください。
9 旧町名では、富沢町など是非話して頂くとよかったですね。
ここらでやめます。重ねて、本当にご苦労様でした。これからも宇和島の歴史教育の先生になられて、おおいに次代の子どもたちに伝えてください。
目線
吉野の食いしんぼう 様
歩くと目線がゆっくりと下がり、いろんなものが見えてきます。歴史もいろんな考え方があり、面白いですね。文献研究は、時間が無いし、ほとんどが聞き語りです。自分の故郷を知るには良い機会でした。
間違い
木下博民 様
大和田は藩校で勉強したですね。本開橋・・・取り違えでした。平川氏の自宅、神田川原の表札が恒三になっていました。何故か分かりません・・・来年以降、継続するとかで、町名などは次回になったものがたくさんあります。神田川原や戸板口、富沢町、佐伯町なども来年ですね、さて、来年は誰が歩くか分かりませんので、どうなるか?とにかく歩きながらの解説は疲れました。
No title
 ぶらり宇和島 伊達な街歩き、大変中身の濃い街歩きですね。鬼城様でないとできないポジションだと思います。今後も続けられたらいいのではないでしょうか。隠れた歴史を解き明かしながら街歩きすることは、故郷の再発見に繋がり、郷土愛が深まるきっかけになると思います。お疲れさまでした。
継続
tentijin 様
継続は大賛成です。今年の案内はお礼奉公のつもりで引き受けたんですよ。今後のことは分かりませんが、他の若い方達にやって頂くのが良いかと思います。宇和島を知る良い機会になりますから・・・

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