宇和島鉄道唱歌 | 鬼城

宇和島鉄道唱歌

2012.12.17.Mon.18:00
友人はもう一曲、珍しい唱歌を持ってきてくれた。これも続けて掲載する。

宇和島鉄道唱歌 
                  南予時事新聞社主幹 小林葭江 作歌
                                         宇和島高等女学校教諭 林みつ 作曲
 1 朝(あした)の帆影 夕けむり 町 賑わしき宇和島の 鶴島城を後に見て いざや走らん汽車の旅
 2 鎌江の杜に齋(いつ)きたる 和霊の宮に ぬかずきて 祈る心のやさしさを 神も うけてや守るらん
 3 ペンキの色も新しき 宇和島駅に来て見れは プラットフォームに人充ちて 烟(けむり)は空に立ちのぽる
 4 車掌が合図の笛の音に 時を違(たが)へず動ぎ出す 列車のきしる響には 須賀の水音物ならず
 5 見上ぐる毛山 鬼ケ域 後に残して次に来る 八幡川原はその昔 安藤継明 忠死の地
 6 鉄軌(レール)に沿へる川水の 上吹く風も心地よく 高串川の鉄橋も 瞬く ひまに走るなり
 7 鍬もつ人も手をやすめ 道ゆく人も足とめて 見送る汽車は程もなく 高串駅に着きにけり
 8 踏切り越えて山の手を たどる彼方に絵の如き 丁字(ていじ)の路は真直に 知永の坂を吉田まで
 9 光満の谷の奥ふかく のぼりは汽車も遅ければ ゆきかう人や馬 車 呼べば応(こた)えんばかりなり
10 堀切りすぎて前に見る 駅は名に負う光満駅 積み出す里の産物は 光満牛蒡(みつまごぼう)に柑橘類
11 長追川に架けわたす 拱橋(アーチ)のさまも面白く 泉ヶ森を右にして 渡るもうれし拱(こう)の川
12 うねりくねれる坂路を 馬根まで走る三哩 窓の峠は まど近く 手に取る如く聳(そび)えたり
13 山と山との問にある 小池に影を映しつゝ 警笛高くひゞかせて 昼も小暗きあなに入る
14 岩切りぬきて貫(とほ)したる 窓の峠の隧道(トンネル)は 沿線一の難所にて 長さは二百数十尺
15 入りてはくゞる隧道(トンネル)の 前に開けし三間の郷 目さきに高き猪の鼻を 彼方にこゆる野村道
16 目もはるかなる田畠(でんばた)は 実(げ)にこの郷の誇りにて 四季折々の作物や 編み出す筵(むしろ)幾何ぞと
17 春は菜種に青き麦 秋は稲葉の黄金色 蚕飼(こかひ)の業も年々に 進みて村を富ますなり
18 務田の駅を後にして わたる小橋は務田川 仏ケ崎や森ケ鼻 左手に近く見ゆるなり
19 野村におこる水電の 変圧所とはあれなるよ 学びの庭に声するは 唱歌の節か音読か
20 四国札所の-つなる 仏木寺へは近けれど 又こん時もあるべしと ゆくてを急ぐ今日の旅
21 はや遠ざかる青稲田 戸雁の里も打ちすぎて 商家の軒の立ち並ぶ 宮野下とはここなれや
22 駿馬献じて御馬(みま)といふ 里の名得たる三間村に いつく三島の社より 左に見ゆる稲荷山
23 宮野下川 増穂川 金剛川(かなどうがわ)や小井出川 小川にかゝる橋々を 鳥より早く越していく
24 中野駅より一哩 走れば来る大内(おほち)駅 道行く人と手を交(かわ)し 語らま欲しきばかりなり
25 三間米産地の広き田を 過ぐれば来る絹笠の 古城にのこる故事(ふるごと)を 告ぐるか山のほとゝぎす
26 田畑を四方に見下せる 好藤村の学び家は 小高き丘に位置しめて 風もすゞしく月清し
27 ゆくてにかゝる三間川の 鉄橋(くろがねばし)は美しく 絵にある橋の如くにて 岸より岸に九十尺
28 沢松すぎて見もあかぬ 稲田の中に賤の家(や)の 竈(かまど)ひときは脹(にぎ)はふは 歴史に名ある内深田
29 深田は桜の名勝地 春は爰(ここ)より汽車降りて 棚曳く雲に大本の 社めぐりも面白や
30 勾配ゆるき鉄の 道ゆくひまも夢のごと 十余哩をやすやすと 近永駅につきにけり
31 右に旭の水わかれ 仙波峠も近くして 滝に名を得し仙郷を 辿(たどる)るも旅の土産(つと)なれや
32 左に泉 三島村 小倉の里に轟の 名所見ながら谷ふかく 成王(なるおう)瀬淵も探らなん
33 流れ絶えせぬ奈良川の 土手に匂ふは菫(すみれ)ぐさ 霞のおくに眺めやる 伽藍はふるき等妙寺
34 後醍醐帝の大御代に 天下四個寺と数へたる ゆかりも深きこの寺の 栄えもながき永野市(いち)
35 近永駅より一筋に のばす線路は松丸へ とゞく鉄軌の汽車の道 吉野にまでも及ぶらん
36 さてゆくゆくは吉野より 予土国境をふみ越えて 渡川(とがわ)をわたる時も来ん 開けゆく世の頬母しや

 林みつ先生の原曲は未発見なので、丹野百合さんの伝唱を基にして、橋村寿先生が下記の様に採譜されています。
楽譜(宇和島鉄道唱歌)
コメント
No title
 作歌されている小林さんは、この種の歌が得意だったのでしょうか、決まりのフレーズを駆使しながらも、なかなか細かく描写しておられるように思います。ただ、盛りだくさんにそれぞれの地を紹介しようと思うあまり、苦しい所も感じますが、良い唱歌と思います。作詞が同じ方なので、作られた時代も同じく明治の末期でしょうね。松野が、まだ、明治村と言っていた頃、我が親は、松丸にあった中学校に通っていたと話していましたが、歌にも出てくる養蚕業が日本の一大産業として栄えた時代に、蚕の繭を運ぶため、鉄道が松丸まで引かれたとも聞いています。同じく繭の集産地であった小倉ー愛治の間に映画館が3つあったと鬼北の先輩から聞いています。予土線は、私が高校生の頃は、近永駅から、アルコール工場まで直通の線路が引き込まれていました。鉄道は、日本近代の産業を支え、それを謳歌するように鉄道唱歌も生まれたのでしょうね。
この歌は今書いている「岡本家の矜持」に載せました。
なぜ中野中にあるのに中野駅としたのでしょうね。もっとも国鉄になったとき「二名駅」と改めましたが。国鉄になってなくなった駅は、「高串」「光満」。光満牛蒡ってのは私もこれで始めて知りました。15番の「猪の鼻」とは何処か。ご存じないですか?
感傷
tentijin 様
 予土線も紆余曲折あったようですね。三間には宇和島鉄道の旧トンネルも残っているようです。若いけれどこれを研究している人も居ます。アルコール工場全盛期、石炭もそうですが、現在は何も残っていない。飽食の時代でもありますが、大事な物が無くなっていくように感じます。年寄りのノスタルジーかもしれませんが・・・
猪の鼻
木下博民 樣
 猪の鼻とはどこか分かりませんが、野村道とありますので黒井地あたりかも知れません。知人に今度、聞いてみます。鼻とは岬の部分のことですね。三間は盆地で廻りは山々に囲まれています。奈良の都は青垣と称しています。三間中の校歌にも「青垣」という言葉が出てきます。その突き出た部分のことだと思います。
 岡本家文書、執筆中とか、ぜひ拝見したいと思います。
古駅
 我が家の近くには「ふるえき」と呼ばれる地域があります。たぶん、この宇和島唱歌にある、最終駅があった場所だと思います。今の吉野生駅とはだいぶ離れています。tentijin さんのコメントで思い出したのですが、母の同級生には松丸には特修科とやらがあって鬼北や江川崎から通学していた人がいたそうです。
 
口伝
吉野のくいしんぼう  様
 お母さんにいろんなことを聞いて松野町をよく知ってください。古駅ですか?終着駅ではないと言うこだわりが在るようにも思えます。しかし、宇和島鉄道はよくまあ走っていたものだと感心します。それが今の予土線に引き継がれているんですね。ルートは変わったところも多くあるようです。この研究をしたら面白いかも・・・伊達家の鏡餅には桃の種が必ず5粒供えられていたようです。松野中のY校長先生のお願いしました。役場の職員の方が桃畑で探してくれ、5つ確保できました。桃の種を保管しているところなど無いですよね。(笑い)
吉野の「フルエキ」という小字はどの辺りですか?
宇和島鉄道の終着駅「吉野」(いまの吉野生とはまったく違います)は、吉野川(私は広見川といわず敢えてこう呼んでいます。)の右岸、大橋のやや下にありました。町には橋を渡って入ったのです。左岸、橋のたもとには小学校がありました(ここはのちに牛市場か何かになっていた気がします)。吉野駅は造ったがこの辺りには魅力的な観光地がなかったので、その吸引の手段に西の文殊堂周辺を整備し、桜を植えて「文殊公園」としました。私は昭和九年、和霊小学校6年のときの最後の遠足に「下村駅(鋼鉄になったとき線路を敷き替え廃駅となります)」からはじめて汽車に乗ってここまで遠出の遠足に行ったことをわすれません。
今の「吉野生駅」は国鉄になって線路が土佐へ伸びるときに移されました。この土地は宇治家(この長男勝久君は長く教師をやっていて家を出ましたが、89歳でつい先日亡くなりました)が畑を提供して出来ました。
汽車通の西部落の中学生は、汽車の発車汽笛を聞いて、急いで坂をおりても途中で汽車に飛び乗れた、と私の亡友が良く話していましたっけ。
祝井のさきに鉄橋がありますよね、これが敗戦直後の台風で流され、私は松丸駅から蕨生の山奥まで歩いて、中国の戦場から復員(戦争が終わって日常生活に戻ること)した思いでは忘れられません。
つまらんことを書きました。
古駅
 私は知識の浅い人間で、木下先生のコメントを読むと、ずっと多くを知っておられると思います。
 住民が今「古駅」と呼んでいるのは吉野西組で、コメントにもあるように吉野橋を挟んで、牛市場の対岸当たりです。大正3年10月18日に近永まで付いた鉄道が大正12年12月12日吉野生のここまで延びたようです。我が家族は昭和53年にこの地に住み着いたので、生粋の吉野人では無いので、詳しくは知っていません。
残念ながら私は吉野で暮らしたことはありません。
「吉野のくいしんぼう」さんを私は知りませんので、何ともいえませんが、私の吉野は友人がいたこと、親戚があったこと、たまたま本がよめたこと程度の知識ですから当てになりません。
昭和53年以降の吉野なんて私はまったく知りません。教えてください。
猪の鼻
二名の近くに牛鬼という名の峠があったので、猪の鼻もありそうですね。
地名
うわつ 様
 いろんな地名がありますね。猪の鼻は三間の古老に聞いても知りませんでした。小さな地域の呼び名だろうと推測されますが、歌に残ると言うことは、結構当時は知られていたのかもしれませんね。牛鬼という地名、知りませんでした。
猪の鼻から学びませんか
私は、羽藤明敏さんの意見を参考にして「猪の鼻」を「歯長峠」としました。「猪(亥)の鼻(向こう)にある鼻(ところ)」としてみましたが、興味のある方は羽藤さんの意見をお聞きになって討論してください。
折角の宇和島鉄道唱歌です。皆さんで1910年代の三間の辺りを徹底検証すると100年前に先人たちが何を考えていたか良くわかります。
三間郷は現在の宇和島中心地がまだ海であったころから栄えていたところですから。
三間の呼称にしても「御馬(みうま)」というだけではない「水沼(みぬま)」からというせつもあり、いや「任那(みまな)」・・・・、とさまざまあって、夢が膨らみますよ(『三間町誌』その他)
歴史は常に温故知新であって、温故だけでは知恵がなく、知新を伴わなければなりませんね。

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