金剛山大隆寺 | 鬼城

金剛山大隆寺

2017.08.02.Wed.17:00
おたまい様

子どもの頃からこの名前で覚えている。
今では正式名勝「御霊屋様」・・・
この廟は秀宗入部の時の総奉行である家老山家清兵衛公頼のぼしょである。
扉の奥には五輪の塔が立っている。

この墓所とは別に五代村候は自分の戒名が付いた大隆寺に位牌堂を儲けた。
山門の正面の建物がそれである。
この山家清兵衛期には最近、夜店も出店している。
夜には花火も上がっている。
本堂では琴の演奏、広場では「宇和島さんさ」の踊りも奉納される。
神になった侍だが、個々はお寺で法要の場所である。
神は和霊神社である。
当時も暑い夏だったに違いない。

御霊屋さん1
御霊屋さん2

御霊屋さん3

御霊屋さん4

御霊屋さん5
コメント
No title
 山家清兵衛さんの無念やら、藩主の様々な不幸が、山家清兵衛さんの霊を慰める信仰になり、和霊様の誕生となったのでしょうね。政治の世界は、昔も今も人の心の闇を反映しているのでしょうね。
No title
無念一杯で生涯を終えた清兵衛さん。その後に起きた数々の不幸が祟りと受け止められ、この様な霊を慰める神社や廟が出来たのですね。
 花火が上がったり、宇和島さんさの奉納など、もう無念さや怒りは収まっているのでしょうか。(と思いたいです)
怨霊
tentijin 様
世の中は善ばかりでは無い。特に封建社会に於いては、みんな平等はあり得ない。そんな中で恨み辛みで相手を揶揄することは当山だった。それが怨霊となる引き金で在ると思う。そして奉る!このような宇和島騒動は他にも多々ある。
達観
吉野の食いしんぼう 様
清兵衛は宇和島入りしたときから命は捨てていると思います。長男を仙台に残したことがその証拠です。昔の武士は主の命令は絶対です。政宗より秀宗のことを頼むと言われて時に死を覚悟したと思います。それだけ新天地を納めることは難しかったんでしょう。和霊信徒なり、宇和島領の平穏を祈っていると思います。
No title
 金剛山も無住職となって久しいですね。大洲加藤家の菩提寺「如法寺」も無住職となっています。
 古刹名刹といわれたところが、だんだん寂れていくというのは寂しいことですね。
 時の流れと共に寺の在り方を変えていかなければならない時期に来ているのかもしれませんね。
檀家総代会
笑隆で~す。 様
5人の方が寺のお手伝いをされているようです。今年まで洸国寺ご住職が・・・来年から2年間選佛寺のご住職が葬儀、法要など行うようです。普段はお一人修行僧が居るようです。これからどうなるのかは本山次第でしょう。
知られていない
今年は暑さのせいかお参りの人が少なかったようですね。和霊大祭はイベント化しているのに知らない人が多くなってるのか?おたまや様は寂しいですね。
寂しい・・・
うわつ 様
輪抜けも少なかったようだし、御霊屋様も・・・和霊大祭自体も少なくなってきています。3日も続くと厭きるんですね。フィナーレの走り込みなどは1/3位になっているとか?桟敷も空いています。
和霊信仰の衰退
明治頃にかかれたものと思われる和霊様の絵図には門前町としての形態があざやかに書かれており、森厳とした雰囲気がある。それが須賀川の付け替え工事によりこわされたことは否めない。また、雑然とした公園にしたことも、可笑しい。なによりも祭礼そのものが古式をこわして、勝手に変えていることも、これまたヘンチクリンなことである。走り込みなどは、余計なニワカ造りの「山車」?)などは即刻排除して、古式にもどすべきであると思う。竹法螺を吹かずに、いつから笛になったものか!!なにより可笑しいのは牛鬼の背中に人が乗ることである。古人曰く、「神不享非礼也、神は非礼をうけず」(鬼神論)「神者依人之敬増威、神は人の敬うによって威を増す」(御成敗式目)といえり。神様に対する信仰は、すべて人為にあると思う。時代により信仰形態が変わるのは仕方ないにしても、変えてはいけないものもある。宇和島人は、もういちど和霊信仰の原点にたちかえり、「ワレイサマ」とは何であるのかを確認する必要があるとおもう。個人的に「われいさま」を考えてみれば、三つの要素があると思う。一つは夏祭り、夏祭りは秋祭りの収穫祭とちがい疫病退散が目的。二つは怨霊信仰(南予固有の祟り神信仰、くわしくは「宇和地帯の民俗」を御覽ぜられよ)、三つは山家伝説である。「われいさま」とは一体何であるのか、宇和島人は、すっかり忘れてしまっているのではないかと思う。浮かれた似非郷土史家の「エセ講演会」ではなく、真摯に「和霊信仰」を研究しておられるS氏などを講師として招いて「講演会」などを行い、「和霊信仰」について語るべきであると思う。
同意見
燼余居士 様
和霊大祭という言葉が隅に追いやられ。「牛鬼まつり」などと変わってきている。また、3日間もお金を掛けてやる必要は無いと思う。しかし、市が絡めば難しい問題が残る。政治と宗教の分離である。和霊大祭に対して市の補助金、職員は使えないのである。それで何時の頃か「牛鬼祭り」となった。しかし、本質は「和霊様」年々人出は少なく、寂しい限りである。明治の頃の神社の広大さは素晴らしい。神田があり、早乙女による田植えなど行事も盛んだったと聞いている。さあ、どの方向に向かっていくのか?祭りそのものを考えねばならないと思う。
和霊信仰興隆の方策について
鬼城様
近々、S氏が和霊信仰についてまとめられるということです。山家事件についての史実は不明なことが多く、いまとなっては小説もどきとなってしまい、声を大きくするものが我勝ちに我意を通そうとしているが、まったく笑ってしまう。S氏の関心事は山家事件ではなく、和霊信仰の形勢および、その発展過程にあるわけです。宇和島人は山家事件と和霊信仰を「ゴッチャマゼ」にして、講談話にしたてあげているから可笑しいのであります。考えてもみるがよい。元和年間は「元和偃武」とはいっても、「戦国の余風」あり。正確にいえば、宇和島藩はいまだ成立していない。宇和島伊達家軍団が駐留していると思えばよいかと思う。寬永年間にいたっても、宇和郡における治安は悪く、ある村の庄屋は群盗16人に襲われ大金を奪われている。またある庄屋は、領主の権威に御構いなく「鷹狩り」を行なっている。伊達秀宗は宇和郡内において、いまだ藩主としての権威は確立していない。そのような時に山家清兵衛が善政を敷く暇もないであろう。まして海岸部の段畑開発を山家が奨励したなどというのは、まったく「へぼ郷土史家」の捏造である。史実と伝説を混乱することなく、判別のうえ記録することが必要かと思う。これから和霊信仰に関する文献史料をかき集め、「和霊信仰叢書」としてまとめなければならないと思います。和霊神社が戦災により焼失したことはかえすがえすも惜しいことでありますが、愛媛県立図書館にゆけば、戦前西園寺源透氏らが書写した史料があります。このまま行けば、せっかく先人が残してくれた和霊信仰が亡びるでありましょう。そのためにはキチンとした研究が必要であります。S氏は過去数十年に亘り研究をされてきました。また、この数年の和霊大祭の衰退は、ことのほかヒドイ。宇和島市も「牛鬼まつり」などというネーミングを廃棄して、まつりの主体を和霊神社に御返ししなければならないと思う。和霊神社あっての和霊大祭ではありませんか。海上渡御も和船を復活して、たいまつを燃やすなど、古式を復活して、和霊信仰をもりたてようではありませんか。知恵をつかえば、金の心配はいらぬと思う。宇和島市には億万長者はことのほか多くおり、カネの「ツカイミチ」に苦労している人もいると聞く。和霊神社が寄附を募れば1億円や2億円の「はしたがね」はすぐに集まるはずである。しかし、そのためには御神意を高める必要がある。再度申し上げます。「かみはひとのうやまうによりいをます」と。
和霊
燼余居士 様
執筆となると2つの選択しか在りません。史実のみと信仰に関してです。史実に関してとなると創作でしょう。つまり記録が残っていない。信仰に関して言えば、江戸中期よりの四国遍路辺りに記録が残っている。いずれにせよ難しい問題ですね。ケーブルテレビの解説で言ったのは、「謎」でした。分からない物は分からない年か言いようがない。小説が面白いかもしれませんね。そうすればお祭りにも影響が出るかもしれませんね。
和霊信仰叢書構想
鬼城様

執筆ではありません。和霊信仰に関する文献・論文・パンフの類・新聞記事などを悉皆調査して目録・年表を作ると同時に主要な著作物については全文収載しようとするものです。わかりやすくいうと、塙保己一が発願して断簡零墨の類まで蒐集して「群書類従」を編さんした例に倣うものです。しかし、当然収載するものについての選別については鑑識眼が必要です。これについては、S先生を代表者として指導を仰ぐべきかと思います。横合いから手を出して人の研究に手を出す宇和島人をよくみますが、まったくミットモないことである。過去、そういう人に3人出会ったことがある。いずれも宇和島人であるから驚く。永年和霊信仰を研究してこられたS先生の功績は偉大であります。
まとめる・・・
燼余居士 様
何かに発表されるのでしょうか?取捨選択、鑑識眼も大事だと思います。2020年までにある程度、まとまると仙台の14代当主山家さんも喜ばれるでしょう。
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和霊信仰叢書構想 続報
鬼城様

 数年前から既に編集中であり、整理をしなければならないと思っていたところであります。ようやくフンギリがついたところでありますから、編纂にとりかかりましょう。
山家氏の出自と最上氏との関係
鬼城様

山家氏は南北朝時代、出羽国村山郡山家村に居住した国人領主であり、斯波管領家の下に属したようでありますなあ。その数代の内には斯波家から養子を迎えたともいう。最上家は周知のごとく(もっとも、このことは御存じないかもしれぬが、いや、これは失礼!)斯波氏(足利氏の分流、家氏がその祖)の一流であり、羽州探題となって最上郡を本拠としたので、最上氏を称したのである。また村山郡を領し、この二郡をもととして、一族繁茂した。その最上氏の下にいたのが山家清兵衞家であったということだ。しかし、最上氏はこれら一族を支配するに惣領制的体制をとっていたため、分割相続がおこなわれ、一族の対立激しく、のちのちまで、最上氏がまとまらず、最上家は近世大名として成長することができなかったのである。その中で山家一流家は最上本家の家臣として信頼されていたのであろう。この故にお東の方が伊達輝宗に嫁いできたとき、つけられたということであろう。まア、こういうところから、山家事件あるいは和霊信仰は研究しなければならないであろう。これまでの通りいっぺんの講談風仕立ての和霊様研究(?)では、駄目でありますよ。いや、つまらぬことである。また、別の目から見れば、伊達政宗は支倉常長をローマに派遣したりや、徳川幕府から過大な江戸城普請を命ぜられたりで、多額の借財を、その死後残していたという。宇和郡10万石は伊逹政宗にとって、どのように考えられていたのか。そのことは「仙台役所」が設けられていることから、おのずとわかるであろう。3万石はいはば、政宗のポケットマネーともいうべきものであったと思う。まア、これから新たな研究視野のもとに「和霊信仰叢書」を編集しましよう。
宇和島によっての重要な歴史判断は堂々実名でしてください。
匿名の発言は無駄。
歴史捏造発言こそ無駄
冒頭の通りである

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