海蝕洞 | 鬼城

海蝕洞

2017.07.24.Mon.09:00
日振島の裏側

地元の人しか、あまり知られていないすばらしい景色が眼前に広がっていた。
説明では日本海に浮かぶ青島に匹敵するとか。
一枚目の写真は「日振島灯台」
「うわつ」さんのコメントにもあったが、昔は船の航行安全のため、火を振っていたとか。
「火振り島」が島名の由来?
海蝕洞はいくつもあるが、代表的な場所に船が近寄った。
残念なことに、この日は満潮でこれ以上、侵入できなかった。
引いているときは、ずっと奥まで入れるそうだ。
この海蝕洞付近には、立て網のブイが・・・
伊勢エビ漁だろうか?

海蝕洞1
海蝕洞2

海蝕洞3

海蝕洞4

海蝕洞5

海蝕洞6
コメント
No title
 日振島の北側は、礒釣り客以外はあまり見る機会がな。私も一度しかない。しかし、詳しい説明など受けていないのでただ見たというだけである。
 説明を受けてゆっくりと見る機会は、このようなツアー以外にはないのでお孫さんなどは、大変素晴らしい体験をされたのではないでしょうか。愛媛宇和島の素晴らしさを感じられたことでしょうね。
さて?
笑隆で~す。 様
将来どのくらい記憶に残っているかですね。良かったのは退屈せず、山にも登って楽しんだようです。はまちの餌やりには驚いていました。毎年、暮れには送りますから身近に感じたのでしょう。貸し切りの渡船か、ツアーでないと見ることは出来ないでしょう。
日振島
日振島の小さな岩には名前がなく磯釣りブームになった時宇和島の五百木?さんらが番号を付けたのが日振の磯釣りの始まりです。その頃の渡船は九島に木下渡船というのがありました。灯台の所は確か13番という磯でイサギが良く釣れる磯でした。
No title
 裏側の自然は、ほとんど手つかずの自然という様子ですね。冒険趣味の方なら、ずいぶんと楽しめますね。それだけ危険も多そうですが・・・。ここまで見れるツアー、なかなかですね。
とぶひの島
日振島は古代「烽」(とぶひ)が置かれた島であり、島名はこれに由来するといえましょう。かくとした記録はありませんが、ほぼ断定できるものではないかと思う。「とぶひ」はのろしであり、昼は煙、夜は火を発して通信手段に用いたものであります。詳しくは岩波書店発行の「日本思想体系」3「律令」の338頁にあります。このことは「遊子の歴史」45頁に書いておきました。また、宇和島藩儒学者上甲振洋の生地でもあります。振洋の漢詩文中に「振洋説」があり、この中に「予、振洋と号す、これは地名をとるなり」とある。また日振島は宇和島藩10カ所番所の一つであり、海上交通あるいは軍事上の要地でもありました。新たなる観点から宇和海の島々を売り出す必要があります。奇しくも
戦国大名の三人はこの島々に深きつながりがあります。長曽我部元親は秀吉の九州征伐に
出陣して島津勢に大敗してこの日振島に命からがら落ち延びました。一条兼定はこの元親に敗れて戸島で亡くなりました。西園寺公広
は九島願成寺(鯨谷)に蟄居しましたが、戸田
勝隆に大洲において誘殺された。これらの
ことを下手な三文小説でかくのではなく、丁寧に歴史学的手続きをふんで、実証してゆけば、観光資源になると期待できるのではないでしようか。過去に宇和島人が、これらのことを三文小説風仕立てで書いているのを垣間見たが読むに堪えない。とくに一条兼定のことは、フロイス「日本史」にも記載されております。このことからすると、イエズス会ともつながりがあり、この面からも研究する必要があるのではないでしょうか。とにかく宇和島人は、豊富な歴史史料がありながら、ったく関心がなく、なげかわしきことであります。



磯釣りのメッカ!
うわつ 様
磯釣りはしたことがないので、場所に何番と着いているのは見聞きしただけです。じっと辛抱しているのが苦手なので・・・この諸島郡を売り出す手立てはないものか?
4年前からだったか?
tentijin 様
新規事業として活動されたのは、観光協会のT氏です。彼の頑張りで、この夏にはほとんどが埋まっているとか!渡井氏達が言った火は定員39に対してお客さんは35名でした。市外の方々に人気のようです。残念ながら定員に限りが有るようです。
伊達家入部以前
橋本増洋 様
このことのついての研究は、ほとんど見ません。特に史実かどうか疑わしいことが、語り継がれているようです。純友の時代から歴史をたどっていくと三島海賊のように観光に繋がると思うのですが・・・元親、兼定、公広については、ほとんど研究の対象ではなく、記述されているものも上滑りですね。パークスが来たとき、日振から狼煙で知らせたと・・・昔の情報手段だったんでしょう。番所があった理由も分かります。是非研究に成果が出るよう祈念しています。
No title
初めて見る景色です。これって充実したツワーですね。
 澄み切った海の色と青空を見ていると、懐かしくって訪ねてみたくなりました。
橋本さんにお願い
橋本先生に言わせると、「下手な三文小説風仕立て」のものは全く歴史的資料として価値のないことになりますね。たとえば、先生のおっしゃる三文小説風とは、なにをいわれるのか? 「清良記」や弘法大師の四国伝承などもこのたぐいでしょう。
わたしに言わせると碑文や詩文もときには誇張されたものが多いですね。李白の白髪三千丈何んて表現も、おそらく最初は三文小説風誇張ですが、いまでは笑うバカはいないでしょう。
「歴史は創造の結晶です。創造(テーマ)のない記録は三文小説以下です」
いま私は飲食ではなく排泄をテーマしした昭和っ子の一代記をかいていますが、これは古人の避けたいはなしです。これなどは貴兄にいわせれば三文小説でしょう。しかし実際には避けてとおれないことです。
とにかく黙々と調べ発表しておられる大兄をわたしは心から尊敬しています。
大歓迎!
吉野の食いしんぼう 様
国旗を振って、大歓迎してくれますよ。昔の釣り場も経験を・・・晴れすぎていて暑かった。贅沢は言えないな!?
価値観
木下博民 様
何をテーマにするかは個人の価値観だろうと思います。しかし、研究と呼ばれるものは事実の積み重ね、小説、フィクションとは違うと思います。現在、教えて貰っているのが、宗徳の野村治水工事です。ある高校の先生の研修です。そこに野村ダムが・・・これは明治の頃の史実です。私は研究家でないので何も言えませんが、誰かがやったことを広めていきたいと思っています。戎山砲台跡とか、九島の狼煙場(トンバ)・・・これは仕事を品柄ですから、凄いと思います。
歴史を研究するとは
一貫した体系のもとに研究しなければ、本当の研究にはならないと思います。私も、目うつりするほうですが、過去50年近く、黙々とやってきました。私の主題とするところは、やはり宇和島伊達家史料研究ということになるかと思います
。この数十年、わからなかった宇和島藩の石高の一つ「京枡髙」がやっと解明できた。決して、はなばなしい研究ではありませんが、地道に研究することが大事であろうと思います。いま、伊逹宗城の伝記である「稿本藍山公記」を翻刻しながら、注釈を加えると同時に校定している。本来は公的機関か大学教授がやるべき仕事であろうと思うが。180巻余りあるから、ヒマをもてあますヒマもない。一昨年からヒマヒマに始めて12巻完了した。完成するには20年はかかるものかと思う。宇和島には、ドハデな「幕末史研究会」があると聞くが、いかがなものかと疑問に思うこと、多々ある。
研究
橋本増洋 様
歴史研究はどうか分かりませんが、個人的には、順を追って・・・面白いところだけの「つまみ食い」てきな研究はおかしいと思っています。いくら面白い研究であっても、繋がりがない。歴史は流れ・・・是非、藍山公記、翻刻をしてください。残念なのは1冊、安政8年が消えていることですね。蒸気船建造の時です。

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