軍艦島ツアー点描 | 鬼城

軍艦島ツアー点描

2017.07.08.Sat.09:00
軍艦島ツアー

散歩の途中にパンフレットを見つけたのがはじまり・・・
次は日時決定!
梅雨時と思ったが、空梅雨の様相なのでバスが出るこの日に決める。
雨模様、佐賀関の精錬所の灯台が迎えてくれた。

点描4
さすが歴史ある港

外国船クルーズは毎日のように来ているとか。
朝入港、夕方出港するそうだ。
船名「MARINER OF THE SEAS」138,279t。
船籍 バハマ
定員 3,000人
乗員1,000人

点描5


平和公園

北村西望作「平和の像」
改修され、きれいになっている。

点描3




原爆投下後、被害に遭った人は水をほしがった。
広島の平和公園も水がテーマとなっている。

点描1


公園内にある「戦災復興記念碑」

点描2


ツアー場所ではなかった平和公園

昼食会場のすぐ側にあり、皆さんは買い物・・・
私たちは平和公園に祈念に行く。
この如己堂も平和記を祈るための遺跡・・・
見学がなかったので、バスの中よりスマホで撮った。

点描6


さらば「軍艦島」

本当に運が良いとしか言いようがないツアーだった。
一泊二日の小旅行、いろんな人と話が出来、楽しい旅行だった。
そして念願の軍艦島上陸を果たし、満足し帰途についた。

点描7
コメント
No title
懐かしく拝見しました。平和学習をメインに修学旅行で訪れた場所が出てきて、当時のことが走馬燈のように浮かんできました。「貴重な経験だったな~っ」と、思っています。
 是非、もう一度訪ねたいと思っています。ペットと泊まれるホテルを探して・・・。そして、江山楼の皿うどん&長崎ちゃんぽんを食べに・・。
No title
 様々見所の多い良い旅でしたね。平和公園や軍艦島は、まだ、行っておりませんが、何だか旅をした気分になっております。得をしたかも。
今回は・・・
笑隆で~す。 様
自由がきかないツアーでした。食事は普通だったか?しかし帰ってくると2Kg太っていました。元に戻すのに今日まで・・・平和教育は口で言っても分からない。体験など聞くとよく分かります。事前指導、時度指導がいるのは当然ですが・・・旅行の考え方ですね。
修学旅行?
tentijin 様
長崎は一部でしたか?今は高速道路が開通しているので佐賀関から6時間ほどで行く事が出来ます。高速道路が東側も全線開通しているので九州一周も出来ますよ。年をとると車は着かれますから、今でしょう。(笑い)
平和
平和な時代だと感じていたけど、そうでもない時代になりそうな不穏な空気が漂っています。
さて、どうなりますかね~悪い方に進まないように願うばかりです。
話し合い
うわつ 様
対話対話・・・対話せずミサイル発射。話し合い、話し合い・・・話し合いせず、核実験!さて、世界情勢どうなるのか?アメリカの政局不安定もきになる。何はなくとも日本の国をしっかりと導いて貰いたいですね。軍艦島や長崎、広島はいい教訓だと思います。風化させたらいけません。
平和の像の修理
この像は見た瞬間から、左手は相当の補強をしなければ駄目だと思ったことがありました。
平和っていうものはやはり左右バランスを考えないといつかは崩れます。
今日、『平和、平和』っていいますが、真剣に平和を論じ合う若者がいるでしょうか?
平和は「バランス(均衡)」です。俺は天屁、いや俺は海の彼方を目指すでは、いつか必ず破綻します。
長崎の原爆記念館へゆかれました? 
長崎原爆では「裸足の少年が原爆で死んだ弟を背負い、焼き場の順番を待つ後ろ姿の写真があります。この写真はアメリカの一番乗した軍のカメラマンが撮影したものですが、このアメリカ人も被爆して亡くなりました。
悲惨な歴史
木下博民 様
写真はある一面、非情です。その裏に隠れている感情も映し出されたら良いのですが・・・原爆記念館はコースの内ですね。子どもたちに教えなければ成りませんから・・・平和の定義論などやったり、やろうとしているのを見たことはありませんね。それだけ価値観が、人それぞれ違うからでしょう。
No title
①日振は「火振り」に由来し古代「烽(とぶひ)」が設置されていたと推定される。烽は令に詳しい記述がある。軍防令17の66条に曰く「およそ烽置くことは、皆相ひさらむこと四十里」とあり、土地柄により置くことならずば、必ずしも四十里に限らず」とある。663年白村江の戦いに破れた天智政権(まだ、皇太子のままで政務に当たっていた)が、唐・新羅の連合軍が襲来することを恐れて北九州から瀬戸内海にかけて、大宰府や山城を各所に設けて防備を固くしたことは周知のことである。いま一度、この烽(とぶひ)という観点から日振島を研究する必要がある。同島の城跡と称される所は学術的発掘をする必要があると思うがイカガであろうか。日振島から古代宇和郡の郡家(ぐんけ、郡司の政庁)があったとされる現西予市宇和町岩木地区まで何個所かの烽火台があったと思う。中世山城などは、突如としてできたものではなく、古代の烽火台などに由来するとおもわれるから、これらをつないいで調べてゆけば、意外に知れるであろうと思う。②純友の乱と日振島。これについても近時細な研究がある。改めて南予の郷土史家は勉强すべきであろうが、まったく振りむこうとしない。諸説紛々、定まる所なしだが、手ごろな本では吉川弘文館の人物叢書「藤原純友」(松原弘宣著)がある。③宇和海と戦国大名という接点で見るがよいと思う。日振島は天正14年12月秀吉の九州征伐に出陣した長宗我部元親が、島津勢に大敗して子息信親は討死、命からがら逃げ延びたのが日振島であった。戸島は周知のごとくキリシタン大名一条兼定の終焉の地。九島は西園寺公広蟄居の地である。この三人は同時代の人物であり、相関関係にある。改めて三人を時の流れと場所で示し、グラフイック化すれば面白いであろう。下手な小説仕立ては無用である。これまでに、この三人を小説仕立てにしたものを目にしたが、読むに堪えない。綿密な文献考證に欠けているからである。それに、もう一つ遠隔地ではあるが沖の島(現高知県宿毛市)を加えれば面白いであろう。九島庄屋土居氏は沖の島から来たと「弌墅載」にある。有名な野中兼山と宇和島藩の予土国境紛争にかかわる島でもある。④九島地名の起源については、コジツケの考証は無用のことである。なんの根拠もなく「苦」に通じるから「九島」になったのであろうとするのは如何なものか。島民も迷惑するであろう。あえて、私がある島の人間から聞いた話では「島の形があたかも櫛(くし)のようであったから「くしのしま」とよばれ、「くしま」となった」ということを聞いたことがあるが、これとて何の根拠もあるものでもない。無用の「こじつけ地名」研究は無用のことである。このことは「地名のたのしみ」(服部英雄)に詳しい。服部は地名の研究には「歴史性を視点に考えなければならない」と云っている。九島には小字が明治一五年(一八八二)四月十日、九島浦戸長清家官治が愛媛県令関新平に提出した『境界査定地籍調』(愛媛県立図書館所蔵)の内の一部。すなわち九島浦の内島部の小字である。これによると島内の小字は120ある。これをまず具さに調査中である。このような研究をもとに「島名」を研究しなければ、単なる思いつきのこじつけでは本当に理解されることはないであろう。④九島の歴史は宇和島藩の史料「弌墅載」や「大成郡録」に詳しく記載されております。また、慶長19年、伊逹秀宗が宇和郡初入りに先立ち藤堂氏から譲り受けた「物成帳写」に来村の内に「寄松、宫の下、河内、稗田、九島、国王、小池。‥‥」とあるから、伊逹氏入部以前に来村の一部として九島は記録されてい。これからすると、すでに九島は戦国期には開発されて「村落」として確立していたといえるでありましょう。「来村」は西園寺公広の生家来村西園寺氏の根拠地で、大村であります。この来村鄕については新たなる視点で研究する必要があります。古代あるいは中世の九島については史料皆無であるが、沖の島(現高知県宿毛市)や黒島(現西宇和郡伊方町)の「古今著聞集」に記録されている「伊予国矢野保の黒島の䑕云々」を読めば、彷彿とするであろう。宇和海の島々も記録はなくても、すでに早くから人間が進出しており、決して人間に無縁の地ではなかったと知るべきである。極端なことをいえば、人類誕生して以来、人間に無縁の地は一つとしてなかったということだ!!
宇和海は中世のころからすでに「いわし網」の盛んなところで、日本でも有数の漁場であったことは周知のことであろう。宇和海は「宝の海」であったことは某漁協の組合長であったH氏が一番よく知っているはずである。⑤宇和海の漁業史については古屋直康氏の研究がもっとも詳しいであろう。「愛媛近代史研究」に掲載されているから、主要な図書館にでもゆけば読めるであろう。




















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