今の馬目木大師 | 鬼城

今の馬目木大師

2017.05.23.Tue.09:00
元結掛願成寺

九島の鯨大師をお参りしたのでと言う訳ではないが、久しぶりに馬目木大師にお参りした。
廻りは住宅、駐車場とお寺の雰囲気ではない。
名前の由来となった「馬目木」も無くなっていた。
ただ、横にそびえる大銀杏の存在が名残か?
信者の方かどうか分からないが「銀杏の実」の袋詰めが・・・
一つ一つに「馬目木大師」の名前が記されている。

説明文もあるが、国鉄等という言葉も有り、文化財なのかと疑う。
自然と文化には掲載されているが、確認はしているのだろうか?

説明文を掲載する。

馬目木大師の由来

 弘法大師のひらかれたという九島鯨谷の願成寺は、四国霊場40番札所の札所観自在寺(御荘平城)の奥の院であったが、離れ島にあるため巡拝に不便であったので、寛永8年(1631)に元結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺といった。この寺は明治になってからさらに現在の国鉄駅の近くの龍光院に合併せられた。
 この大師堂を馬目木大師といういわれは、弘法大師は鯨大師をつくられたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのはたいそう不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遙拝所を設けられた。そしてこれに札を掛けよといって、そこに馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておかれたら、いつしか根づいて葉がしげるようになったという。
元結掛の地名については、何時の頃かここで信仰心のあつい人が頭をそって仏道に入り、その髪を元結(めげをしばるひも)でこの馬目木に掛けておいたところから「まげとゆい木」といわれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結がこの馬目木の枝にひっかかるので名づけたともいわれている。
 現在もお堂と馬目木が残り、土地の人々の深い信仰の対象となっている。


馬目木大師0
馬目木大師1

馬目木大師2

馬目木大師3

馬目木大師4

馬目木大師5
コメント
No title
 近くにいながらまだ参拝に訪れていません。近々にうかがってみようと思います。
 立派な銀杏の木ですね。秋には、立派に色づくことでしょうね。撮影ポイントが、一つ追加になりました。
 「元結掛」という地名が、どこから来たいたのかずっと疑問に思っていましたが、ここに書いてあったのですね。
 また遠い昔は、ここが海岸線で九島に渡っていた場所だったのですね。埋め立て地であることは若手いたのですが・・・。もう少し、九島に近い所だったのではないかと思っていました。
 
馬目木大師の現状を伝えていただき多謝。
この奥の院が廃寺になったのは、明治の神仏希釈騒動時。
① 龍光院が40番奥の院の一つ鯨大師→馬目木大師を引き継いだ理由は?
② 鯨大師がなぜ40番の奥の院であったのか?
③ 庶民の巡礼が盛んになるのは元禄時以降ですから、島の奥の院が不便だなんていささか信仰の欠如でしょう。
④ 戦国期およびそれ以前修業者が苦心して九島に渡った時代を考えてみませんか?
No title
お堂の高さと比較し、なんと大きく立派な銀杏の木だと解ります。真黄色に色づいた頃に見てみたいです。
 信心深い時代にもこう言う合理的な方法をとったのはやっぱり島に渡ることは困難があったのでしょうか?
No title
 弘法大師の伝説は、至る所に存在しますが、その真偽の程は分かりませんね。松野にも逆杖(さかづえ)の銀杏というものが、奥の川にあります。偉大な方には、伝説はつきものなのでしょうね。
馬目木大師
弘法大師が全国各地で寺を建てたりできるだろうか?と、ネットを見たら、大師というのは弘法大師に限らず各宗派に何とか大師という高僧がいたそうですね~。
泰平寺の瓦に島津家の丸に十の家紋があったのはんなぜでしょうか?城川の龍澤寺の末寺なのかな?
疑問4点について
① 明治以降、御城下内真言宗寺院が存続したのは、龍光院のみであったからでは、ないのか。城下內真言宗の本山を「大成郡録」(宝暦7年本)で示せば、下 記の如くである。
  龍光院→大覚寺 
  延命寺→大覚寺
  願成寺→下醍醐寺子院報恩院、醍醐寺五子院の一つ
 龍光院と延命寺は宇和島藩の祈祷寺院であり、主要な祈禱はこの二寺院が執行
 していた。願成寺は、この二つの寺院に支障があったとき、代役を行ってお り、多分に補助的役割であったようだ。要するに、二つの寺院より格下であった
ということであろう。このうち延命寺と願成寺が廃寺になった理由は不明である
が、宇和島藩は土佐藩のように強圧的な廃仏毀釈はなかったようであるから、宇和島藩の庇護なしに存続することとのできなかった貧乏寺であったことが原因
と思われる。このうち願成寺は四国遍路にちなむ寺院でもあり、その寺格をつぶすに惜しく、龍光院に移したということであると思われる。「明治維新神仏分離
史料―第九卷中国、四国」を見ると、高知県は301ヶ寺を廃寺としているが、宇和島は明治4年の記録で1ヶ寺のみとなっている。実際には、延命寺や願成寺が
もれているが、高知県ほどには「廃仏毀釈」は吹き荒れていなかったと思う。
宗紀、宗城の二公は熱烈なる水戸学の信奉者ではあったが、融通のある頭脳の
持主であり、佛敎に対しては寛容であったものと、私は思う。
② 観自在寺から遠く離れた鯨大師が觀自在寺の「奥の院」とするのは疑問である。鯨大師についての根本的試料でる「宇和郡旧記」にも、この事実は記されていない。あえて、このことに触れれば、嘉永四年、鯨大師住僧であった、一行
院誓海なるものが大師堂建立の寄附を募った時に遺した「永代祈願録」がある。
その寄附を募った文言中に「
  まして大師霊験の御旧跡観心在の奧の院とかや
とあり、ここで初めて「観自在寺奧の院」ということが出てくる。この寄附帳を
みると、最初に桜田佐渡を始めとして五人の家老がならんでおり、誓海なるものが、ただの庵主ではなかったことがうかがえる。昭和40年代、先住和氣坂氏が
話された云い伝えによれば、この誓海はもともと旗本の出で、藩主宗城とも懇意
であったという。今となっては、うら付けもとれないが、この伝承は大事にしたい。よって、ある程度藩の權威を背景にした誓海は、寄附の權威を募らんがために、観自在寺に諒承をとることなく、上記のいいつたえを捏造を承知で記載した
ものではないのか。また藩当局も、これに対してメクジラをたてることなく黙認
したものと思う。
③ そもそも九島にあった願成寺を元結掛に写したのは藩命によるものである。
これには宇和島藩の寺院対策があったものと思われるが、その理由は不明であ
る。単に島に渡るのが不便であったからというだけではないような気がする。
 不思議なことに九島に蛤、百の浦、本九島の三ヶ浦があるが、江戸時代のみな
 らず、昭和10年代にいたるまで、庵寺のみで葬儀を執行すべき本寺がなかったのである。現在、本九島地区に本寺が二ヶ寺あるが、百の浦と蛤は現在も庵寺のみで、本寺は旧市内にあるのである。
④ 「梁塵秘抄」にも「四国の辺地をぞめぐる」という文言があるように、海辺の聖地をめぐって修行するということは、四国のみならず、全国各所でみられたと「海辺の聖地」―日本人と信仰空間―、上田篤著にかかれており、このことに由来するものと思われる。また、岩石や太陽に関する信仰も宗派を越えて存在して
いたようである。たとえば、兀兀たる岩石に座して、真言を唱えて、上る朝日や、西に沈む太陽を拝むという信仰の修行の場が「鯨大師」の原初の信仰形態であり、鯨大師の地は、そのような修行者の休息地がはじまりで、やがて寺院化していったものではないかと思う。昔の鯨谷の絵図をみると、やたらに岩石に、何何岩と書いてあるものがあり、原始信仰の名残りをしのばせるものがある。
また、対岸の只なみ山にも兀兀とした岩が多くあり、何何岩というものがあり、
その岩に対して、餠やミカンを投げてお祷りするという風習があったように記憶
するが、もはや忘却のかなたである。最後に、いま、いちいち、これらのことについて、細密な研究をするヒマがないが、いずれまとめてみたい。
   未完




放置
笑隆で~す。 様
神社仏閣なので、この標示も文責の名前はありません。宇和島の古い地名には言い伝えがありました。妙伝寺の前、大きな石のあったところ、笹が生えていた、」袋小路だったなどなど・・・元結掛は商店街も有り、栄えていたようです。驚くのは宇和島に5つの遊郭があった。ここの地にもあったそうです。木下先生が冊子に書かれています。やはり城下町には、いろんな残されたものが在りますね。
No title
木下博民 様
疑問点に答える知識はありません。と言うところで、橋下さんの助け船が・・・コメントを読んでください。史実を捉え、素晴らしい意見だと思います。そうか、ここの管理は龍光院か?聞いてみます。
No title
吉野の食いしんぼう 様
困難を克服することこそ、仏の導きが・・・(笑い)四国遍路に言ったとき感じたのは、ようもこんなところに寺をという、驚きの連続でした。いまも宗教は略式になってきています。大般若経などは600巻在るそうですから、読んでいたら大変です。だから「転読」ぱらぱら巡りの方法をとったんですね。閻魔祭りの時、見ることが出来ます。壮観ですよ!この地も略式でしょう。
奥の川
tentijin 様
近く、雨の後に奥の川に半世紀ぶりに行こうかと・・・震災の頃、天ヶ滝でキャンプをしたことがありました。天ヶ滝の写真を撮りに行こうかと思って居ました。逆さ杖ですか?弘法大師に杖はつきものですね。八幡河原の伏流水も杖をついたと言われています。水無川ですね。
No title
うわつ 様
大師の称号・・・あまりよく知りませんが、有名な人に「伝教大師」がいます。天台宗の開祖ですね。平安初期の僧で、同じく唐で修行した弘法大師のライバルです。やはり大師は偉い僧の称号ですね。さて龍澤寺です。
1323年に創基、当時は龍天寺として名乗り、現在の北宇和郡鬼北町にあったそうです。1433年に薩摩藩主島津元久の長男で、巡航した仲翁守邦禅師が中興し、現在の龍澤寺と改名、寺の鬼瓦に島津家の家紋「丸に十」が刻まれています。島津の方からお参りに来られます。昨年も伊達博に来られ、お参りに行くとか?
宗教史まで・・・
橋本増洋 様
木下先生の質問、答えて頂きありがとうございました。滝の渡って研究されていますね。3度目の退職をして、今は情報教育の仕事をやっています。閑な折、宇和島近辺の辺りをうろうろと・・・伊達家文書の解読も父として進んでしません。
橋本さん、頑張ってください。
大師伝説は南豫周辺を拾っても大変なかずでしょう。
八十八ヶ所のご本尊も大師作というのがやたらありますが、殆どが後世の作で、もし大師作ならば国宝ものでしょうに、聞きませんね。
八十八箇所の寺は、真言宗の寺が意外と少ないですね。一概に真言宗の寺と決め込むのは考え物です。
わたしは鯨大師が40番奥の院として栄えるようになればありがたいことだとおもいます。
そうそう観自在寺には奥の院がいろいろありますよね。大月の奥の院などおやとおもいますね。
鬼城様 伊達家文書調査について
鬼城様の御世話により四年間通って調査した史料、いずれの日にか世に出したく
思います。今回は、この場をお借りして、多々無用の雑音を発したことお詫び
申し上げます。失礼ながら、これにて発信は終わらせていただきます。本当に
ありがとうございました。

管理者にだけ表示を許可する