高野長英 | 鬼城

高野長英

2017.03.13.Mon.15:00
幕末の宇和島藩

原稿依頼があり、高野長英に関してフィールドワークを行った。
何度も繰り返すが、私は歴史学者じゃない。
研究も深くない。
ただ、歩いて伝えることのみ・・・
旧町名「横審町」、この場所に桜田佐渡の別荘が有り、長英の隠れ家とした。
長英は、この場所を「五岳堂」と名付け、向学心に燃えた学人たちが寄り集った。
石碑は後藤新平の揮毫による。
建物は明治期のものを平成になって改修している。

長英1
久良砲台

現愛南町久良の半島に設置された砲台の場所である。
何故このような場所にという疑問への回答は、数点存在するようだ。
余談だが、この湾内の中央部に紫電改が沈んでいたのが見つかり、引き上げられている。

長英2

久良湾

砲台方面から見た対岸である。
静かな湾内では魚の養殖が盛んに行われている。

長英3

細道

地元の人に、「普通車で行くと傷が付く」と言われたが、無理をして・・・
何度か来ているが、あまりの道の狭さを改めて痛感した。
海より30mほど高い場所に石垣が残っている。
高野長英の設計仕様ということが分かったのは、大正14年伊達図書館長兵頭賢一氏による古文書の解読からである。

長英4

砲台下の海岸

綺麗に石垣が積まれている。
この場所に煙硝倉や見張り小屋があった。
長英が宇和島を去って2年後に砲台は完成している。
試技をして対岸1,000m向の的10の内9つ命中したと記録が残されている。
長英の机上での研究だが、精密な計算に基づいていることが分かる。

長英5

天儀の鼻

道を進むと行き止まり、そこが天儀の鼻である。
足摺宇和海国立公園、美事な景観である。
景色は最高だが、道が狭いのがネックである。
右奥が宿毛市・・・


長英6


コメント
No title
 「戊戌夢物語」を書いて幕府を批判したため伝馬町送りになり、その伝馬町が火災になり期限付き放免となった。指定された期日までに帰ることなく逃げた。と言うことしか知りません。
 しかし、「天下の大罪人を藩で匿い若者の教育に当たらせる」という考え方はさすが宗城公ですね。素晴らしい。
 それにしても南郡の辺鄙なところに砲台を築いたのは不思議なことでですね。敵対相手は、どこだったでしょう。
外国船
syoryuで~す。 様
表向きは・・・信憑性は疑わしいのですが、薩摩の如く密貿易を企てていたのではという方も居ます。これに関しての研究はされていますが、裏付けはなさそうです。
調べました
この時代だからこその身の振り方なんですね。45歳から46歳の頃の数年間ではありますが、伊達のお殿様が身を助けたようなもの!!宇和島の町は医者が多いと思ってましたが、彼の存在が影響しているのでしょうかね?
No title
 伊達のお殿様が幕末に活躍されたというお話を聞くと、少し誇らしくなるミーハーですが、様々歴史に名を残す方々が、愛媛に来られていたというお話もしかりです。ひたすら学ぶのみです。
長英逃走経路
高野長英については何度か書きましたし、調もしました。山形置賜高畠の田圃の中にポツンと目立つ一画があって、ここを訪ねたときなどは、さすが長英らしいと驚きました。
No title
 若いころ、たぶん大河ドラマかなんかで、やけどし?顔を変えて逃亡した印象が強く、
彼の活躍を知る前に、怖い感情が残っていました。
 宇和島藩との繋がりも、鬼城さんとお知り合いに成り知ったように思います。
 シーボルトの娘、イネとかも宇和島藩と関係があったような・・・。宇和島の歴史、もっともっと皆に知られるといいですね。
南郡の四国防衛陣地
高野長英が設計したということで久由砲台は史跡にされますが、昭和20年四国防衛のために南郡には沢山の陣地が造られたのですが、いまそれを詳しく検証する人はあまりおられませんね。誰か郷土の方でおやりになるかたはいませんか?
敗戦時、宇和島に防衛陣地も兵もいなかったのは何を意味しているのでしょうかね。
その時の宇和島の防衛価値について皆さんにお尋ねしたいと思います。
医者と寺
結女 様
医師軍団がいた町名が残っています。旧町名ですが「富沢町」藩医富沢礼中が住んでいたところです。ほか有名どころでは浅野洞庵がいます。この家系も残っています。お寺は伊達家入部以来でしょう。臨済宗妙心寺派が席巻しています。幕末、メジャーではないけれどちょっとづつ出てきますね。(笑い)
幕末
tentijin 様
有名どころは、少しの期間宇和島に居たと言うことのみ・・・長英、大村益次郎しかりです。居住跡など残っては居ますが、昔の面影はない。あまりにも多すぎて、目移りします。しかし、メジャーには成りませんね。
逃走
木下博民 様
吉村昭の「長英逃亡記」を読み返したところです。まあなんと人脈の広さよと感心します。江戸時代の指名手配も半端ではない。それでも勉学に励む姿は貴重です。
流れ
吉野の食いしんぼう 様
幕末の流れの中での人々の出現です。継続性がないのが物語にならない原因でしょう。イネ、タカ親子も同じです。前原功山、長英、大村益次郎などなど・・・あっという間に来て去って行った。これが宇和島でしょうか?
検証
木下博民 様
歴史も江戸以前の古都が多く、昭和の戦争に関しての調査などやっている方は皆無だと思います。大潮の時、由良半島の砲台見学をしている人は居ます。佐田岬も同様でしょう。久良に関しては研究されている人は居るみたいです。
砲台跡
時間が経ちすぎて歴史を調査し掘り起こすのは不可能に近いでしょう。由良半島の砲台跡地には行ったことがあります。と言っても海からですがね。その時代なのか戦前の砲台跡なのか知らなかったですが、マムシや大ムカデがウヨウヨ居るから陸からは危ないという話も聞きました。もう半世紀も前の話です。
荒れて
うわつ 様
歴史は保存しなければ、無くなるか荒れる。この教訓は、何時の時代も生かされていないようです。風化の一途・・・梅や桜も同様です。やりっ放しではいけません。
風化する宇和島の公園
小さな宇和島に公園は沢山あります。
公園を創った以上風化させないことですが、
① 堀部公園
② 住吉山公園
③ 水源地公園
これらの現状はどうなっているでしょうか?

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