散歩コース | 鬼城

散歩コース

2017.02.21.Tue.12:00
予科練橋

正式名称は板島橋、この詳しい内容は、木下博民著「板島橋」を読めば分かる。
橋の右手が愛媛県立水産高等学校。
左一番奥の山が、九島鳥屋が森である。

散歩1
新板島橋より鬼ヶ城を望む

天気が良く、素晴らしいパノラマ風景である。
体育館は愛媛県立宇和島南中高等学校・・・

散歩2

河口

潮が引いたら、保手川、神田川の合流点の中州が現れる。
ここに白鷺、鵜、鴎が集う。

散歩3

きらめき

逆光で撮ったが、設定が分からない。
鴎の集団か?

散歩4

舞う鳥

大空を飛翔する鴎!
飛ぶ鳥の撮影は難しい。何しろ止まってポーズをとってくれない。

散歩5

鴨の群れ

縄張りがあるのか、鴎や白鷺、鵜のところから離れて群れている。

散歩6
コメント
保手川下流
「板島橋」を書くために何度ここへゆきましたことか。右岸にあった板島橋親柱は、本を書き上げたときには川底に捨てられていましたが、のちに故井上柳一さんたち予科練の方々の努力で、とりあえず樺崎資料館の庭先まで運ばれていましたが、こんな石柱などといまは問題にもしません。せめて5月10日の空主記念日事業の一つに予科練跡記念碑の側に移してはいかがでしょう。左岸の親柱はそのまま道のあった場所にあるはずです。
なんとかしたいですね・・・
木下博民 様
現在の行政にはお願いするには無理があります。担当はどこか?から始まり、たらい回し・・・国も県も市町村も同じ。心置きなく活動できるようになったら、考えてみます。私を含めて市民は知らないと思います。
予科練橋
予科練橋でエサを載せたザルを垂らしてガザミ(ワタリガニ)をとっていた。そのころはトガタニなどと言っていたように思うのだが??
ひし形の甲羅で爪や足が青い色をしていた。
その頃に近所のおじさんに借りた伝馬を漕いで赤松遊園地を往復した。
新しい橋が出来た頃に橋の下で1mオーバーのサメをスコップを持って海に降りて格闘の末仕留めた。その頃アルバイトしていた店に持って帰ったら、社長が喜んで酒を買い、奥さんがフカの湯ざらしにして従業員皆で酒盛りをした。思えば無茶をしたものです(笑)
No title
宇和島スイミングクラブが出来て間もなく
から結構長く、この橋を渡って夜に体力作りに通いました。仕事が終わって、週1とは言え頑張れたのは若かったから?
 夜だったので景色は楽しめませんでしたがこんなに鳥が飛来してくるのですね。
 九島の鳥屋ガ森、直登で結構キツいですね。でも、この姿を見ると又登りたくなりました。
なつかしい!
うわつ 様
坂下津、草原でしたね。中学校の頃泳ぎましたね。潮干狩りでアサリ・・・サメは凄い!まあ、今と比べ、不自由だったけれど、毎日が楽しかった。あの時代に帰れる者なら帰ってみたいですね。今なら、全てだめだと言われますよね。
山登り
吉野の食いしんぼう 様
忘れていましたが、始めたいと思います。下から見る景色、上から見下ろす景色、世の中の立ち位置と同じです。予科練橋の通称の方が、結構しっくりきます。時代が違うのでしょう。(笑い)宇和島地域、良い物が次々を無くなっていく。これでは人口増は望めない。
No title
 わたしのウオーキングのコースの一つです。鳥を眺めながらユックリ歩くと気持ちも大きくなったような気がします。ただ、冬場は宇和島湾側から冷たく強い風が吹くので春からのコースです。
 私は、宇和島の人間でないので予科練橋のことは知りませんでした。宇和島に来て3年間この橋を渡って職場にに通勤していました。その時、職場で「予科練があって予科練橋と呼ばれていた。」ことをはじめて知り、戦争の痕跡があるのだと知りました。もう40年前の話です。
No title
 宇和島の歴史については、知らないことが多いので、読ませていただいて、少しだけ勉強をしています。水鳥だけを追いかけても写真の良いテーマにはなりそうですね。鬼ヶ城の写真は、ブログ冒頭の写真と方向が合っている気がします・・・?。
板島橋が2度崩落したこと、ご存知ですか。
いずれも戦後すぐの昼で、1度は私が友人と保手川堤(右岸)を散歩していたときバスが渉りきった直後右岸よりの橋脚が折れて崩落しました。誰も橋の上にはいませんでしたが大変な事件でした。そののちこれはわたしは宇和島にはいませんでしたが、台風の日、城中学の生徒が何人か落ちて女生徒が一人なくなりました。このときは、早く帰した城南中(校長高田先生)の生徒は助かり、帰すのは遅れた城北中(校長和泉先生)の事件だったのです。校長先生はお二人ともわたしはよくしっています。
一度は
木下博民 様
最初の倒壊はしりません。二回目は生徒が亡くなっているので聞いたことがあります。高田校長先生がお亡くなりになった後、三間の自宅訪問したことがあります。一緒に行ったのは内山校長先生・・・これは城南中の持山、松節山(妙典寺前)の名義変更に行ったときでした。山の持ち主を校長にしていたんですね。それから登記は宇和島市になりました。下刈りなど城南中生徒が行っていましたが、いまはどうなっているか不明です。
高田兼六先生は私の恩師
高田謙六先生は宇和島商業の英語の先生から城南中学の初代校長になられたのですから。
謙六という名前は金沢で生れたのでお父さんがそうつけられたのです。兼六公園の兼に言偏を付けた由。(前回、兼六先生と書いたのは間違い)
新制中学2校が宇和島にでき、校舎がないので双方とも予科練跡に入居した時代、2校は新制中学はいかにあるべきかを競われた。城北は小学校風習の延長、城南は旧高校風習により近付こうとされた。城南にはちょっと毛色のかわった先生も集った。私の友人になった川崎宏や井上柳一などその類。
高田先生の奥さんは成妙小学校で教師をしていた小林小夜子(父は宇和島鉄道唱歌の作者、南豫時事新聞社主)で、高田先生のような先生が、2,3代続いたら、宇和島の教育も変わっていたかもしれません。
名校長
木下博民 様
おもしろい繋がりですね。しかし、そのことが分かる人が少なくなっています。井上柳一先生も火災でお亡くなりになり、残念なことになりました。宇和島も変化しつつあります。これが良いことか、悪いことかは、後の人たちが判断するでしょう。
保出川
小学校?の遠足でメダカやあめんぼを取ったり、河原を歩いた思い出があります。住吉地区にはあのようななだらかな河原がなく、とてもうれしかった。多分今はずいぶん変わってしまったのでしょうね。東京ではコンクリートの川岸で細い川がちょろちょろ流れている所が沢山あります。それならいっそ暗渠にして上を公園にした方がましと思ったりします。川が長いのでその地区、地区で方針が違い、突然河原になったりしますが。宇和島は戦争中予科練があったために空襲を受けたとは聴いたことがありますが、へ~そうなんだという思いです。宇和島の事何も知らなかったんですね、住んでて。水産高もハワイ沖の事件があるまでどこにあるかさえ良く知らなかった。反省。
思い出
kinoppy 様
宇和島南(現在は中等学校に)の逍遙歌に「清き保手川 たゆみなく 熱き血潮は 流れゆく」という歌詞があります。現在は、水の流れが少なく、河原内は雑草で半分位埋もれています。青龍とはほど遠い現象です。予科練があったため、空襲を受け太のは事実です。コンクリートの護岸は、神田川でしょうか?古き良き時代、思い出としてですね。
半世紀前
笑隆で~す。様
私や「うわつ」さんなどは、半世紀以上前になります。草原の予科練後で遊びました。海で泳ぎ、潮干狩りをしたり、魚釣りもしました。サヨリを釣った記憶があります。今ではこの汚れを見ると食べる気や泳ぐ気もしません。しかし、慣れた場所ですが、景色は良いですね。
鬼ヶ城
tentijin 様
ハンドルネームが「鬼城」ですから、できる限り鬼ヶ城を入れるようにしています。しかし、飽きっぽいので(笑い)変化もします。お察しの通りです。宇和島の歴史は江戸時代だけでなく、昭和になっても続きますね。tentijinさんが妙典寺前に居た頃もそうですよ。神田川も変わりましたね。昔は好かったというのはじいさんの繰り言(爆)

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