打吹童子ばやしと海上渡御 | 鬼城

打吹童子ばやしと海上渡御

2017.08.11.Fri.17:00
宇和島牛鬼祭りの知られざる行事ふたつ!
時期を逸したが、お盆の帰省の思い出にアップ・・・

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コメント
昨今の通信
様々な動画がはいってきて、わたしのウインドウ7では、パンク寸前。
動画
木下博民 様
バックアップを取り、システムは空にすると軽快に動きます。私のデータはメインが2Tでバックアップが1Tです。システムファイルのSSDは256でソフト以外のデータなしです。
No title
打吹童子ばやし,子どもがメインでこの様に素晴らしい演奏を聞かせてくれているのでもっと観客が多いと良いのになと思ってしまいました。
 和霊様のお祭りは見所満載なのですね。
知らない・・・
吉野の食いしんぼう 様
広報宣伝不足ですね。牛鬼出陣式の後練っていきます。元気な子どもたち・・・素晴らしいお練りです。
素晴らしいですね
打吹童子ばやし可愛いですね~。私ならずっと追いて廻ると思います。それにしてももう少し観客がいても良いのでは?和霊様と同じ時に開催されているのですか?思わず起ちあがって応援したくなる行事ですね。先頭の旗振りも見事です。ガンバレ~!!
暑い最中
kinoppy 様
13:00スタートだったので、暑くて追っかけも大変でした。知らない人が多いのと牛鬼祭りも地元の人が少ないですね。関係者の家族などは出ていましたが・・・年々、人も少なくなっていますが、観客も減少傾向です。
動画
打吹童子ばやしは知らなかったです。出し物が多くなって追いかける体力がありません。鬼城さんの動画で楽しみました。(*ノω゜)
追っかけ・・・
うわつ 様
体力が無く、海上渡御で撤収でした。走り込みはUCATで・・・散歩も頑張っていますが、疲れがなかなか取れません。
いささか宇和島は太鼓の町ですね
もっとも単調な楽器のようで複雑。
わたしは音色だけで楽しみますが、国籍不明の妙な衣裳にはいささかげんなり。
和霊神輿の海上渡御は、何時ごろからはじまったのでしょうね? 漁師側からの縁起はあれこれありますが、「浪速の歌舞伎の船乗込み」が発想ではないでしょうか?
帰りだけ船というところにどうも引っかかります。
さて
木下博民 様
海上渡御の発祥は昭和?でしょうか。分館はありません。海に入るのなら禊ぎの意味もあるのかもしれません。舞笹(御幣争奪)と並んでいつ頃からか宮司さんにお聞きしましたが、不明という返事でした。和太鼓は全国ですね。衣装は様々なようです。もとは鼓動でしょう。
海上渡御
鬼城様

海上渡御は鬼城様御指摘の通り昭和初めにはいってからのことと思われます。海上渡御船に指定されるにはくじ引きがあり、この渡御船になることを漁師はこのうえもなき名誉と思っていのであります。また、海上渡御船に指名された舩は昭和の末まで、かならず新聞記事に出ていたものであります。
 須賀川付け替え工事前まで、今の和霊公園あたりは、北新地あるいは北陽といわれる花街があり、三階建ての妓楼がならび殷賑をきわめていたという。須賀川付け替えににより、築地花街にうつり和霊神社界隈の殷賑は、これにより失われたものでありましょう。いずれにしても、これほどの歴史があり、御霊験あらたかなる和霊神社を衰退させることはないであろう!!











祭りの変遷
橋本増洋 様
何も残さない宇和島・・・新しいことを始めてもなじめない。和霊様、もっと賑やかになって欲しいですね。須賀川の付け替え工事や堀の埋め立てが必要だったのか?今残っていれば、城は国宝級だし、和霊神社も参拝客が絶えないでしょうね。
内港記念碑の無惨
鬼城様
 旧内港なども残っていれば、小樽運河をはるかに凌駕する規模であったようです。しかし、宇和島人は空襲の際のガレキを内港にすてて、とうとう埋め立ててしまったようだ。それのみならず、この内港築造に功績のあった中原渉記念碑を宇和島消防署の奥に放置して無惨なありさまだ。朝日運河も江戸時代に埋め立てて田圃であったところを埋め立てて市街地化せんとしていたが、港湾としての機能を果たすべく、大正末から昭和初期にかけて、わざわざ掘削して運河としたのであります。ついでにいえば、JR宇和島駅構内にあった、お恵ちゃん(宇和島出身の歌手松山惠子)の寄贈した電話ボツクスが見当たらない。歴代宇和島市は「観光立市」を目指したようだが、なにか、そらぞらしく聞こえます。
まことにその通り
橋本増洋 様
少子高齢化で困った。それじゃあ、観光で人を呼ぼうと思っても何も残っていないでは話にもなりません。新しく踊りでもと「ガイヤ」を作ったけれど、人は呼べない。ちぐはぐですね。駅前再開発などというのは、お金をかけるだけ無駄だと思うのですが・・・駅に人は集まらない。
宇和島内港のジオラマ化
 鬼城様

 見出しの件をある人物に数年前提案したが具体化しなかった。戦前の宇和島内港の賑わいは「南豫時事新聞」に詳細に記載されております。ぜひ、具体化したいものである。宇和島運輸本社なども再現してみたい。
新しい市政に
橋本増洋 様
無駄遣いは辞めて、CGで元禄の頃の宇和島が360度で見えるように作れば良い。新居浜の「あかがねミュージアム」は太鼓台勢揃いが、毎日見えます。凄い音声、迫力です。NHKが安土城を再現しました。ジオラマも大きな者で無ければ・・・置く場所ですね。市民の声に耳を傾ける市政が必要です。
内港について
 鬼城様
10数年前、宇和島市某課に「内港」関係の資料があるのではないかと直接訪ねたが、応対に当たった係員は、「わからない」と答え、逆に「そういう資料があれば、教えてほしい」と言われた。その後、何の連絡もなかった。丁度、そのころ「宇和島市誌」の編纂を完了していたころであったかと思う。まア、いずれにしても関心がないのである。小樽運河は艀船が運航する程度の水路であるが、宇和島市内港は曲がりなりにもポンポン船(発動機船)が入港していたのである。内港であると同時に運河でもあった。昭和初期の新聞を読むと内港を「宇和島市の胃袋」と称しており、物資の集散地でもあった。昭和11年に宇和島市が発行した「郷土読本」はつぎのように書いている。「町民はかねがね町から遠く離れた樺崎に帆船が出入りすることの不便を痛歎していた。そこで協同一致、あらゆる困難をしのいで、堀をさらへ岸壁をきづき、とうとう町の中心にまで船を引き入れることに成功した。時に明治四十三年、町長は将軍中原渉氏であった。今内港の両岸、運輸会社の真向、発動船の煙の濃くただよふ所にその記念碑が立っている」と。もちろんいいことづくめではなかったであろう、船が航行するため、橋は架けられず、対岸に向かうには「渡し船」を利用しなくてはならなかった。また、内港は雑然としており、船の煙は市街地にまで及び環境は劣悪であったようだ。しかし、昭和16年、この内港を視察した内務官僚は、この内港の殷賑ぶりに驚き、「実に立派な内港である。殊に市街地の中心深く港の喰い込んでいるところは珍しい」といっている。また、ある高級官僚は「この内港は絶対につぶしてはならぬ」とも言って居た。歴史はやがて消え去るものであろうが、この内港の存在は「宇和島市の記憶遺産」として残さなければならないと私は思っている。。
内港
橋本増洋 様
懐かしい言葉です。運河も朝日運河の名前が浮かびました。慣例以後の方が知っているくらいで、ほとんどの人が知りません。新しい図書館などに資料を集めて貰いたいですね。歴史文化の街と言いはしますが、何も残っていない。残念です・・・

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