鯨大師 | 鬼城

鯨大師

2017.05.17.Wed.09:00
遍昭山願成寺

九島のバラ園が綺麗だと友人達から情報が入った。
今までも行ったことがあるが、花の季節は外れていた。
まずは「願成寺」をお参りすることにした。
別名「鯨大師」という。
名前の由来は定かで無いが、「鯨に似た巨岩」があるとか「鯨が打ち上げられた場所」という説がある。
この鯨大師にも弘法大師の伝説が残っている。
本尊は弘法大師手作りの大師像。
詳しくは「宇和島の自然と文化2」を参照されたい。

1631年四国遍路をする上で離島は不便だと元結掛に移された。
この寺が「馬目木大師」である。
第40番札所観自在寺の奥の院として歩き遍路の方々がお参りしている。
現在の奥の院は合併され、龍光院である。
扁額の揮毫は、七代伊達宗紀公・・・

2015年映画「海すずめ」の重要な舞台となった。
昨年の九島大橋架橋によってお参りする人も増えていると聴いている。

鯨大師0
鯨大師1

鯨大師2

鯨大師3

鯨大師4

鯨大師6
コメント
私も
私も14日に九島に行っておりました、お弁当はいつもこの鯨大師の庭で食べるのですが、今回は菖蒲となでしこの綺麗な長坂にしました。バラ園も後半になっていましたが綺麗でした。
 バラの植え込みの中に、野菜畑もあって、一般の家庭の生活感が感じられるのも又いいな~って思いました。
 鯨大師は椿が綺麗ですが、もう終わっているようですね。
No title
 早速のアップありがとうございます。
 私は、逆に思っていました。元結掛にあったものを九島に移したのだと・・。何となく違和感を感じていたのが、これですっきりしました。
 へんがくの文字は、素晴らしいと行くたびに思います。春山公も凄いですが、宗紀公これだけの筆が待てたんですね。
 
No title
 伊方町名取も、伊達家の流れの人たちと聞いていますが、瀬戸や宇和海の異変をのろしで、宇和島に伝えたとも聞いています。ひょっとしたら、宇和島湾の外の異変は、九島から見張っていたのかも知れないなと、ふと、思いました。
地元の力
吉野の食いしんぼう 様
九島架橋に関しては色々と言われていましたが、今は落ち着いていますね。鯨大師も清掃など行き届いていました。普通の生活ですが、便利になったことは間違い在りません。橋を渡るとき自転車で買い物帰りの方を見ました。ゆったりとした時間が過ごせました。
九島~元結掛
笑隆で~す。様
元結掛の前は海端だったんです。だから魚屋さんが多いのだと思います。馬目木大師前の道が旧遍路道です。佐伯橋には関所が有り、渉と御城下ですね。天赦園の前を通り、中川の魚屋さんのところを右に・・・伊達博の前は偕楽園で通れなかった。宗彰さまのとき、庭園内の道を城と共に志市に寄贈したのです。
その通り!
tentijin 様
昔は狼煙による伝達手段ですね。9カ所あったそうです。桜﨑(串)、つん越(串)、伽藍(三崎本浦)、三本松(二間津浦)、長崎山(二間津浦)、一本松(神崎浦)、高松(小島浦)、遠見(三机)、和田山(塩城)、大島、大崎(田の浜)、大良(奥浦)遠見場(九島)の14カ所です。緊急事態と参勤交代が三崎に付いたときに狼煙を上げたそうです。一度やってみたかったのですが、火災などの危険性が有り、断念しました。
九島
まだ鯨大師にまだ行ったことがありません。
九島大橋が出来て何度か橋を撮りに行っただけで、その時以来行ってないな。愛宕山からは眺めているのですがね~(笑)
構図が
うわつ 様
神社は少し変化がありますが、お寺は皆同じような感じがして・・・五重塔でもあれば、分かりやすいのですがね。鯨大師はツバキの頃が良いそうです。3月頃かな?賑やかになると言っていましたが、普通の生活ですね。
鯨大師考
この辺りを「鯨渓」といいます。私考ですが、最後の宇和の領主西園寺公広は、素直に宇和の黒瀬城を出て願成寺にこもります。ところが新領主となった戸田に引出され大州で騙まし討ちされてしまいます。願成寺は宇和と御荘の中間、ひょっとしたら隠れ陣屋だったのかもしれません。(願成寺がなんで40番観自在寺の奥の院であるのか考えてください)
元禄以降四国88ヶ所巡拝が庶民の信仰対象となったとき、鯨大師は不便と城下にはいる手前のウバメガシ群生の浜で遥拝し、元結のひつかかるウバメガに巡礼札を括りつける巡礼者が増えたのでいっそ寺を出張させようと、元結掛に大師堂を移した。ところが明治の廃仏稀釈でここは崩壊(のちに堂宇を建て、いまもある)。明治以降は龍光院がこれを引きついて40番奥の院としている。
というように、40番奥の院鯨大師は九島鯨渓の願成寺本家で、いまは交通不便ではない、大いに信心されてはどうか?
この堂宇は蛤集落の方々が維持しておられる。
史実
木下博民 様
物語としては非常の面白い!学者の皆さんは古文書が無い限り、認めない。今は無住で蛤の方々が維持管理されています。今、県の文化財保護調査員だった方から資料を頂いて、宇和島の山城について調べています。中世の城は小高い山が在れば、全て出城なんですね。戸田辺りの資料があれば、面白いのですが・・・
No title
鯨大師は蛤地区𫞖の信仰の拠り所であります

鯨谷にあった願成寺は元和八年、元結掛に移転しております。その後、鯨谷にあった願成寺跡には地区民により大師堂が立てられ、庵寺として現代にいたるも蛤地区𫞖の信仰の拠り所となっているのです。
 西園寺氏との関係をいえば、宇和西園寺氏最後の当主公広は元来宇和島市宫下所在の来応寺住職でありました。現在も九島地区には来応寺の檀家が多く、鯨大師は来応寺の末寺であります。そのような関係で、公広は蟄居の地を九島にあった願成寺にしたものでありましょう。おそらく、公広も若き日、この鯨谷願成寺に籠り、修行の場としたことがあったかもしれませんが、これはあくまでも
私の想像であります。戦国期の鯨大師が、どの程度の規模の寺院であったかは、まったくわかりませんが、清良記の記載によると、まがりなりにも、宇和黒瀬城主であった公広が蟄居した寺でありますから、大師堂と本堂ぐらいはあったものでありましょう。
しかし、鯨大師に隠れ陣屋があったなどと、さも史実のようなことをいうのは、これは如何なものか。鯨大師は幾百年来、蛤地区𫞖が大事に守ってきた庵寺であります。橋が出来たからといって、仰々しく信仰の対象にされるものではありません。これまで通り蛤地区𫞖の庵寺として、私は静かに見守りたいと思います.

蛤地区𫞖を代表して、このこと、せつにお願いするものである。
戦国時代
橋本増洋 様
謎に迫る記述、面白いですね。四国遍路がどのような変節をたどってきたのか、分かりませんが、江戸期に急に流行したように見受けられます。効能大士が開山して、そのあとどのように遍路が出来たのか、歴博特別展でも分かりませんでした。ましてや板島の地を誰がどのようにして鎌倉、室町を納めてきたのか?この辺りの研究や想像をされている人が居れば面白いですね。九島の方々の信仰はずーっと語り継がれてきたものだとも居ます。先日、薔薇園でなじんだ方たちとお話をしてきました。何しろ7年通ったところですから・・・
鯨大師は、橋本さんのお話も既に承った上でもわたしの思い入れなのです
どうぞ宇和島在住の皆さんが、自分の意見を言い張るだけでなく大いに議論してほしい。
伝承は伝承として素直に読み取りながら、相手を黙殺したり罵倒したりせず、どうすれば蛤の方々が苦労してここまで維持してきた鯨大師をさらに次代へ向けた貴重な財産とすることができればいいではないでしょうか?

橋本さん
貴兄の樺崎砲台碑考にしても、あれほどご苦労されて冊子までつくられたのですから、さらに進展させ、「あの砲台が藩費だけでできたのではないと丁寧に訴えたい」ものですね。
歴史は個人の財産ではありません。次代への「夢玉(勝手な造語、ごめんなさい)」だとわたしは思っています。大いに膨らませてください。
そうそう、「昔の宇和島藩マラソン行事」も発掘されたそうですね。愛媛国体で併せて関心をよせる仕掛けをされては・・・
わたしは「病膏肓に入られて、余命をもがくばかりで残念です」お元気で。
木下博民様へ
自著二書は知人・知友へ配布しましたが、いまだ反応はありません。某人の一声で「宇和島城天守閣」の二階に、数百万円をかけた有名武将の甲冑レプリカが展示されるような土地柄である。また、ひるがえって過去の宇和島市を見れば、内港をつぶし、融通座をこわし、大手門(おたもん)の石垣をぶちこわし、穗積陳重ゆかりの「榊森文庫」を破壞している。
近年にいたっては、にわか歴史家が輩出(?)し、史実と空想をないまぜにした「歴史モドキ」(?)が横行している。
  宜べなるかな!!
私のこれからの「有り様」については一番目の自著中「自序」に書いてあります。兵頭賢一が残した「伊達家史料解読」の遺産を墨守して「歴史」を書くようでは駄目であります。「北宇和郡史」を超えるものをいま編さん中であります。このこと、すでに某人には伝えており、さらに御協力をお願いいたします。これはすべて自力で、過去30数年に亘り、継続したものである。己の売名行為をはかることなく、次代に何を残すべきか。これらのことを考えながら、今日もまた、一人、「粛々」と図書館で資料を漁っている。
橋本さん、お元気でなにより
① 自著2書とは、樺崎砲台記念碑解読ともう一冊は何ですか? 死ぬ前に拝見しておきたいとおもいました。
② 貴兄の頭脳に伍したいとは思うべくもありませんが、せめて貴兄から一般人の智慧程度にレベルをお下げになって発表してください。
③ 宇和島が多額の経費を投じてレプリカを造ろうがどうしようが、観光資源にされるのでしょうから、あなたの研究とは場違い。貶せば天に唾吐くようなもの。ご自分の損です。
④ 貴兄の研究資料反応はないと嘆かれますが、たとえばわたしはこれまで蓄えのほとんどをつぎ込んでも反応ありません。それでも全く思わぬ人から連絡いただくこともあります。
大兄の研究、尊敬していますよ。まだお若いのだから、大いに頑羽ってください。
鬼城様 鯨大師の想い出について
 鯨大師先住(故人)和氣坂純道さまは、昭和48年ごろでしたか、私に言われたことがありました。著名な仏教民俗学者五来重が鯨大師を訪ねてこられ、古寺の佇まいをのこす、この庵寺をいたく気に入り、「この風致」をいつまでも残されるようにと和気坂様にいわれたそうです。
 本堂改築以前の鯨大師は、境内庭の中央に、それは大きな古松が空高くそびえ、楠木や桜の古木・芭蕉䓁がうっそうと茂っておりました。昭和30年代、春は花見、甘茶もらいに、和氣坂さま独演の釈迦生誕の「紙芝居」に島の悪ガキどもは、しずかにききいっておりました。また、春と秋の大師講、年末には弘法大師の「おころも替え」など、大層な賑わいでした。四季を通じて、鯨大師の行事と地区民は深くかかわってきたのであります。
 蛤地区より鯨大師に通じる海岸道路は、三尺幅の細道で、鯨谷近くは満潮になれば潮が打ち寄せる岩場伝いでありました。
 いまや無住となり、聞けば、春と秋の「大師講」も中絶しているという。また、古松も枯死して久しく、古寺のたたずまいは完全に失われてしまった。「本堂」も改築され、海岸道路はコンクリートで固められて、もはや昔日のおもかげもない。時勢の流れとはいえ、返す返すも、大事なものを失ったものかと、痛惜の念に堪えない。便利さと快適を求めて、失うものは途方もなく大きいものであ
ると実感するが、これも自分自身が老境に近ずいた証拠であろうと苦笑する。
橋本さんの回想貴重ですね。
庵には庵守が居られると居られないとで大違いになります。
記録すら残らず寂しいかぎりです。
橋本さんのようなご熱心な方が、何らかの形で記録を残されることは大切なことですね。
それにしても庵守さんをなんとしても捜すことですね。

管理者にだけ表示を許可する